毛利秀元とは~毛利秀元陣跡と安国寺恵瓊の陣跡~なんで南宮山の高所に陣を?
しかし、スゴイところに陣地を構えたものです。毛利秀元は・・。と言う事で、南宮山(なんぐうさん)にある毛利秀元の陣跡を訪問して参りました。関ヶ原の戦いの際に、毛利秀元が陣を置いた場所は、岐阜県垂井町にある南宮大社から山登りとなります。まずは、...
しかし、スゴイところに陣地を構えたものです。毛利秀元は・・。と言う事で、南宮山(なんぐうさん)にある毛利秀元の陣跡を訪問して参りました。関ヶ原の戦いの際に、毛利秀元が陣を置いた場所は、岐阜県垂井町にある南宮大社から山登りとなります。まずは、...
関ヶ原の戦いにおいて、毛利家は石田三成の要請に応じ、大阪城に参じます。そして、毛利輝元が西軍の総大将となりました。当然、毛利家の親族である吉川家、小早川家は毛利本家に従い兵を大阪に出します。このように毛利家を支えていた吉川広家は、吉川元春の...
長束正家陣跡は、南宮山の麓となる垂井町栗原集落にあります。長束正家は水口城主12万石で、豊臣政権では石田三成らと共に、五奉行の1人として主に財政を担当していました。1600年、石田三成が五大老の毛利輝元を擁立し、関ヶ原の戦いとなると長束正家...
長宗我部盛親の陣跡(長宗我部盛親陣址)は、垂井町栗原にあります。約6000の兵にて栗原山麓に陣を置きました。長宗我部盛親は、長宗我部元親の4男となります。長宗我部元親は1599年5月に死去しており、その後を長宗我部盛親が継いでいました。長宗...
浅野幸長(あさの-よしなが)は、甲府城主21万石で、父・浅野長政より既に家督を譲られていました。ちなみに、父・浅野長政は前田利長と共に、徳川家康暗殺の嫌疑を掛けられて、自ら謹慎中でした。しかし、徳川秀忠に帯同することを許され、真田昌幸が籠城...
山内一豊陣跡は、徳川家康が最初に本陣を置いた「桃配山」からもほど近い、旧中山道沿いにあります。この旧中山道、ちょっと古い集落も街道沿いに残っており、非常に趣がありますので、自転車や徒歩でゆっくりと訪ねて見たくなるところです。山内一豊の陣跡が...
関ヶ原の戦いの際に、徳川家康が最初に本陣を置いた場所は「桃配山」となります。現在、桃配山(ももくばりやま)にある「徳川家康最初陣跡」は国史跡に指定されており、国道21号沿いの階段を登って2分ほどの山腹にあります。1600年9月14日の夜、西...
関ヶ原の戦いにて、徳川家康が最後に本陣を置いた場所は、現在、陣場野公園となっており、その公園の「北西」に「徳川家康最後陣跡」があります。関ヶ原の戦いが始まる前、大垣の岡山本陣から転進してきた徳川家康は「桃配山」に本陣を置きました。1600年...
田中吉政の陣跡は、他の陣跡史跡と異なり、道路の交差点にあり、田中吉政陣跡の小さな敷地が、道路で囲まれているような感じになっています。田中吉政と言う武将は、豊臣秀次の筆頭家老でしたが、豊臣秀次の切腹事件では、お咎めなく、10万石で三河・岡崎城...
細川忠興(細川越中盛守忠興)は5400を率いて徳川家康に味方しました。細川忠興の正室は明智光秀の娘・細川ガラシャです。石田三成が挙兵して、大阪城付近に豊臣家の人質として滞在していた、大名の妻子らを一時、西軍の人質としますが、その時、細川屋敷...
岡山烽火場とは国指定史跡の岡山烽火場(丸山)は、関ヶ原の戦いの際に、黒田長政と竹中重門が陣を置いた小高い丘です。良い場所は先に西軍が布陣してしまいましたのでね、東軍で小高い場所に陣を置けたのは、徳川家康の桃配山と、ここ岡山(丸山)くらいです...
関ケ原ウォーランド関ケ原ウォーランド(せきがはらウォーランド)は、約3万平方メートルの敷地に、関ヶ原の戦いにて活躍した戦国武将が所狭しと展示されており、さながら「関ヶ原合戦」が再現されている、野外博物館です。お城の「門」の形をした入口を入る...