上月城の戦いと尼子氏滅亡をわかりやすく簡潔に
上月城とは標高190mの荒神山に築かれた上月城は、鎌倉時代末期に赤松氏の一族だった上月景盛が築城され、「嘉吉の乱」で滅亡するも播磨・美作・備前の国境に位置していたため軍事拠点とされ、これまで数々の攻防が繰り広げられた。戦国時代になっても上月...
上月城とは標高190mの荒神山に築かれた上月城は、鎌倉時代末期に赤松氏の一族だった上月景盛が築城され、「嘉吉の乱」で滅亡するも播磨・美作・備前の国境に位置していたため軍事拠点とされ、これまで数々の攻防が繰り広げられた。戦国時代になっても上月...
「中国攻め」と播磨征伐室町時代より守護・赤松氏によって統治されてきた播磨国。戦国時代になると、これまでの家臣や赤松一族が台頭してきたことで、他国と同様に半独立状態で数郡を有する者が増え続けた。その中でも赤松一族の別所氏が、大きな影響力を持つ...
大内氏の弱体化「西国随一」と謳われた大内義隆は、第一次月山富田城の戦いで大敗、撤退時に後継者・大内春持が溺死したことで政務の意欲を失っていった。また、大内義隆の命によって武断派ではなく文治派が政務の中心を担ったことで、両派の争いが拡大して大...
石見銀山の争奪戦国時代の1557年(弘治2年)厳島の戦い、防長経略で大内氏(陶氏)を討伐したことで、周防、長門を併呑した毛利元就。安芸の国人領主から安芸、備後、周防、長門を治める中国地方の有力大名となる。衰えることのない勢力拡大は、尼子氏の...
尼子氏の衰退と大内氏の出雲遠征尼子氏の衰退1540年(天文9年)出雲国主・尼子晴久(詮久)は、反尼子氏という姿勢を明確にした安芸の国人領主・毛利元就を討つべく安芸(吉田郡山城)に侵攻した。1541年(天文10年)尼子軍は長引く攻城戦で苦戦を...
吉田郡山城の戦いとは応仁の乱から半世紀たった中国地方では、山陽の大内氏と山陰の尼子氏が勢力拡大を図って争っていた。安芸国・国人領主の一人にすぎなかった毛利家は、選択を間違えると直ぐに潰されてしまう弱小領主だったため、大内氏と尼子氏に付いたり...