蛍大名・京極高次の大戦・大津城の戦い
京極高次京極家は、北近江守護を務めた名門だったが、戦国時代に入ると浅井氏の下刻上によって衰退を余儀なくされたが、京極高次の妹・竜子が豊臣秀吉の側室となり寵愛を受け、京極高次も25歳で淀殿の妹・初を娶った。1590年(天正18年)自分の周囲の...
京極高次京極家は、北近江守護を務めた名門だったが、戦国時代に入ると浅井氏の下刻上によって衰退を余儀なくされたが、京極高次の妹・竜子が豊臣秀吉の側室となり寵愛を受け、京極高次も25歳で淀殿の妹・初を娶った。1590年(天正18年)自分の周囲の...
島津豊久とは関ヶ原の戦いにて有名な「島津の退き口」を演じ、島津義弘らを逃がすために、自ら殿を務めて討死した「島津豊久」の墓が、関ヶ原から車で20~30分ほど南下した、裏伊勢街道沿いにあります。まずは、その島津豊久とはどのような武将だったのか...
阿多長寿院盛淳とは長寿院盛淳(ちょうじゅいん-もりあつ)は、阿多盛淳、阿多長寿院盛淳とも呼ばれますが、阿多と言うのは子孫が阿他氏を称したからとなります。長寿院盛淳は、もともと室町幕府の管領の1つである畠山氏の分家出身という事で、1548年?...
天下分け目の「関ケ原の戦い」が行われていた9月15日。Twitterでは石田三成が、#関ケ原2020を立ち上げ、今年も負け戦を実況していました。石田三成は逃走から6日目の9月21日に捕縛されていますが、2020年はMKタクシーを利用しレバノ...
大垣城の歴史大垣城(おおがきじょう)は連郭輪郭複合式平城で、最盛期の規模は現在の敷地の広さからは想像もできない、4重にも水堀を巡らした総構えの城だったようです。大垣城の別名は麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)とも、牛屋城とも呼ばれま...
関ヶ原の戦いの際、大谷吉継陣跡よりも、敵の東軍を先だって迎え撃つような形で布陣したのが、平塚為広(ひらつか-ためひろ)です。平塚家は、相模・岡崎城を本拠地にもした、もともと相模の名門・三浦氏の氏族で、三浦為高が平塚郷(神奈川県平塚市)を領地...
石田三成公。今でこそ、義に生き、義を貫いた武将として知られておりますが、一昔前までは秀吉公の腰巾着、狡猾な悪党として語られることも少なくはなかった武将です。石田三成公といえば、関ヶ原の戦い。戦国時代の大戦で最後を飾った石田三成公ですが、その...
田辺城の戦い(たなべじょうのたたかい)は、関ケ原の戦いの前哨戦のひとつで、慶長5年7月19日(1600年8月27日) から9月6日(10月12日)にかけて約2ヶ月間、丹後・田辺城での籠城戦となりました。守るのは丹後の大名・細川忠興に家督を譲...
高橋元種(たかはし-もとたね)は、1571年に筑前の秋月城主・秋月種実の次男として生まれました。母は田原親宏の娘です。天正6年(1578年)、耳川の戦いのあと、8歳の頃に同盟者である小倉城主・高橋鑑種の養子となります。そして、攻め落とした香...
浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)は、戦国時代の慶長5年(1600年)8月9日にあった北陸における「関ヶ原の戦い」です。本物の関ケ原合戦は、1600年9月15日ですので、浅井畷の戦いは約1ヶ月早い「前哨戦」と言う事になりますが、なぜ、石...
山口宗永山口宗永(やまぐち-むねなが)は、山口光広(山口甚介)の子として1545年に生まれました。初めは山口宗長とも名乗り、山口甚兵衛、山口玄蕃頭宗永とも称しますが、豊臣秀吉に仕えます。文禄2年(1593年)、朝鮮攻めの失敗から丹生島城(臼...
青木一矩青木一矩(あおき-かずのり)は、戦国時代の武将で美濃国大野郡揖斐庄の住人・青木重矩(青木勘兵衛)の子として生まれたとされています。生年は不明です。母は、鍛冶職人とされる関兼貞(関兼員)の三女・大恩院となります。この大恩院は、豊臣秀吉...