宇喜多秀家陣跡(南天満山・天満神社)~西軍最大勢力を動員するも最後は八丈島に?
宇喜多秀家陣跡とは戦国時代の1600年、関ヶ原の戦いにおける本戦では、西軍最大の17000と言う兵力を誇り、満を持して南天満山付近に布陣したのが宇喜多秀家です。西軍は大阪城に留まった毛利輝元が総大将でしたが、西軍の副大将は宇喜多秀家(28歳...
宇喜多秀家陣跡とは戦国時代の1600年、関ヶ原の戦いにおける本戦では、西軍最大の17000と言う兵力を誇り、満を持して南天満山付近に布陣したのが宇喜多秀家です。西軍は大阪城に留まった毛利輝元が総大将でしたが、西軍の副大将は宇喜多秀家(28歳...
関ヶ原の戦いにて命を落とし、露と消えた戦死者は、6000とも8000とも言われますが、その多くは西軍として戦った将兵です。埋葬・供養を担当したのは、東軍として加わっており、この関ヶ原も所領としていた竹中重門です。徳川家康より見舞料(供養料)...
関ヶ原の戦いは、東軍・西軍合わせて15万とも言われる、規模の大きな合戦でした。簡単に申し上げますと、関ヶ原のあちこちで、生き残りをかけた壮絶な戦いが繰り広げられた訳ですが、その中でも最大の激戦となった場所が、ここ「関ヶ原の決戦地」だとされて...
石田三成の盟友として、最後まで石田三成に協力した勇士として、多くの戦国武将好きが親しみを感じているのが大谷吉継(大谷刑部吉継)です。そんな大谷吉継は関ヶ原の戦いにて敗れ、現地で自刃しました。そのため、大谷吉継の陣跡の近くには、大谷吉継の墓も...
他の関ヶ原の史跡は、かつて陣地があった事を示すような「石碑」だけが概ね建っているのですが、ココの笹尾山(ささおやま)だけは、山腹に竹矢来と馬防柵が再現されています。その為、関ヶ原の戦いにおける合戦史跡としては、最大の見どころになると思います...
関ヶ原の戦いの際、島津家の島津義弘は、そもそも徳川家康からの要請を受けて1000にて大阪から、まずは鳥居元忠が籠城する伏見城へ徳川の援軍として駆けつけました。しかし、鳥居元忠が島津家に援軍要請したことを聞いていないとして、鉄砲まで撃たれて入...
島津義弘の陣跡(島津惟新陣)は関ヶ原の「神明神社」の境内を北西に外れた場所にあります。関ヶ原の戦い(本戦)は、1600年9月15日に火蓋を切りましたが、その前日夜には石田三成や島津義弘らは大垣城にいました。その大垣城に増援として島津義弘の家...