島津豊久とは~軍法戦術に妙を得たりと評された名将が眠る島津豊久の墓
島津豊久とは関ヶ原の戦いにて有名な「島津の退き口」を演じ、島津義弘らを逃がすために、自ら殿を務めて討死した「島津豊久」の墓が、関ヶ原から車で20~30分ほど南下した、裏伊勢街道沿いにあります。まずは、その島津豊久とはどのような武将だったのか...
島津豊久とは関ヶ原の戦いにて有名な「島津の退き口」を演じ、島津義弘らを逃がすために、自ら殿を務めて討死した「島津豊久」の墓が、関ヶ原から車で20~30分ほど南下した、裏伊勢街道沿いにあります。まずは、その島津豊久とはどのような武将だったのか...
阿多長寿院盛淳とは長寿院盛淳(ちょうじゅいん-もりあつ)は、阿多盛淳、阿多長寿院盛淳とも呼ばれますが、阿多と言うのは子孫が阿他氏を称したからとなります。長寿院盛淳は、もともと室町幕府の管領の1つである畠山氏の分家出身という事で、1548年?...
お茶屋屋敷とは1600年、関ヶ原の戦いにて勝利し、天下を掌握した徳川家康は、全国に主要街道の整備を行った。やがて江戸幕府を開き、1609年に徳川家康が江戸城から上洛する際に、中山道の要衝であり、徳川家が関ヶ原で勝利すると言う「開運の地」とも...
杭瀬川の戦い杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、関ヶ原の戦い(9月15日)の前哨戦となった1600年9月14日に発生した合戦です。9月14日のお昼頃に、徳川家康は3万とも言われる大軍を率いて美濃家坂に着陣します。この時、井伊直政・本多忠...
大垣城の歴史大垣城(おおがきじょう)は連郭輪郭複合式平城で、最盛期の規模は現在の敷地の広さからは想像もできない、4重にも水堀を巡らした総構えの城だったようです。大垣城の別名は麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)とも、牛屋城とも呼ばれま...
関ヶ原の戦いの際、大谷吉継陣跡よりも、敵の東軍を先だって迎え撃つような形で布陣したのが、平塚為広(ひらつか-ためひろ)です。平塚家は、相模・岡崎城を本拠地にもした、もともと相模の名門・三浦氏の氏族で、三浦為高が平塚郷(神奈川県平塚市)を領地...
1582年、織田信長より毛利攻めを命じられた羽柴秀吉は宇喜多直家を含めた3万にて、毛利勢として清水宗治らが籠城する備中・高松城に押し寄せました。そして、毛利の援軍も来るとにらみ合いとなりましたが、黒田官兵衛の秘策を受けて、蛙ヶ鼻から3キロの...
木崎原の戦いとは木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、1572年に日向の真幸院木崎原(宮崎県えびの市)で行われた伊東義祐と島津義弘(38歳)との合戦です。伊東家側は覚頭合戦と言いますが、島津家側は加久藤城の戦いとする場合もあります。薩摩の...
手取川の戦い(てどりがわのたたかい)は、戦国時代の1577年9月23日に、上杉謙信と柴田勝家が戦った北陸での合戦です。七尾城主の畠山義隆(はたけやま-よしたか)が死去し、まだ5際~6歳である畠山春王丸(はたけやま-はるおうまる)が家督を継ぐ...
青木一矩青木一矩(あおき-かずのり)は、戦国時代の武将で美濃国大野郡揖斐庄の住人・青木重矩(青木勘兵衛)の子として生まれたとされています。生年は不明です。母は、鍛冶職人とされる関兼貞(関兼員)の三女・大恩院となります。この大恩院は、豊臣秀吉...
筒井定次(つつい-さだつぐ)は、1562年5月5日、和泉の慈明寺城主・慈明寺順国(筒井順国)の次男として生まれました。母は筒井城主・筒井順昭の娘です。筒井一族で本家となる筒井順慶(筒井順昭の子)が跡継ぎに恵まれなかったため、筒井定次は筒井順...
関ヶ原の戦いとなる約3ヶ月前の1600年7月18日、伏見城に40000とも言われる大軍が押し寄せ「伏見城の戦い」(ふしみじょうのたたかい)となった。石田三成が徳川家康を討つために蜂起し、その趣旨に賛同した西軍はまず畿内の徳川勢力の駆逐を考え...