藤堂高虎・京極高知陣地~京極高知と関ヶ原合戦史跡

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1600年、関ヶ原の戦いの際、藤堂高虎と藤堂高吉、京極高知は、福島正則隊に続いて東軍左翼縦隊の第2陣として、中山道からちょっと南にある柴井地区に陣を構えました。
蜂須賀豊雄は藤堂勢、落合新八は京極高知に従っています。

開戦となると、藤堂髙虎と京極高知の5000は、不破関跡付近まで前進して、山中村に布陣していた大谷吉継平塚為広、戸田重政と交戦しますが、最初は押され気味だったようです。

しかし、松尾山小早川秀秋が寝返ります。
その後は、もう説明はいらないですね。




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ちなみに、京極高知の兄・京極高次は、東軍として大津城にて籠城を続け、西軍・立花宗茂らより大砲も撃ちこまれる中の猛攻を、9月14日夜まで耐え抜きました。
そのため、15000とも4万とも言われる立花宗茂・毛利元康らは、9月15日の関ヶ原の蛇単位に間に合わず、京極高次はギリギリでありながら、大きな貢献を果たしたと言えます。
藤堂高虎は脇坂安治小川祐忠朽木元綱赤座直保ら東軍諸将への寝返り調略を、布陣する前から行っていたようですので、近くに陣を張ったと言う事なのでしょう。
なお、藤堂高虎は築城の名手でもあり、戦後、大洲城などを建設しました。




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京極高知とは?

京極高知(きょうごく-たかとも)は1572年に、京極高吉の次男として生まれました。
母は、浅井久政の娘・京極マリアです。
前述致しましたとおり、兄に大津城6万石の京極高次がいます。
姉か妹かは不詳ですが、兄弟の京極竜子豊臣秀吉の側室になっていました。
関ヶ原に参じた京極高知は、この時、飯田城主として10万石と言いますので、兄よりも多くの知行を得ていたと言う事です。
すなわち、優秀な武将だったのでしょう。
下記は関ヶ原ウォーランドの京極高知です。

京極高知(関ヶ原ウォーランド)

京極高知の論功行賞では、丹後・宮津城主として、12万3000石の国持ち大名となりました。

藤堂高虎・京極高知陣跡

さて、関ヶ原の藤堂高虎・京極高知陣地を示す石碑は、その昔はちょっと西の方の民家にあったそうですが、3度の移転を経て、現在は、関ヶ原中学校の敷地内にあります。
敷地内と言っても、北側の校門を入って右手すぐの緑地にあります。
大変立派に整備と清掃がなされておりました。

都市部の学校では校門が閉まっていて立入禁止のところが多いので、ここを訪れた観光客の方も、遠慮して校内に入るのをためらう方も多いようです。
しかし、関ヶ原中学校さんでは、HPでも「遠慮しないで校門から中に入ってください」とありますので、感謝の気持ちを持って見学させて頂きましょう。

関ヶ原中学校の生徒さんは、2015年のデータで約170名です。
今回は平日であり、校舎では授業されておられますので、静かに見学させて頂いたのと、周辺の道は狭いですので、登下校の時間帯とならないよう、それだけ配慮させて頂きました。

下記の地図ポイント地点が、藤堂高虎・京極高知陣地がある場所となります。

車は、校門を入ったところで邪魔にならないよう、短時間止めさせて頂きました。

しかし、関ヶ原の街は、歩いている方を、ほとんど見かけません。
タマに見かけても、観光しておられる方ばかりです。
道は狭いですので、車や自転車を運転される方は、止まる所はしっかり止まって、左右の安全確認をお願いしたく存じます。

ふと思いましたが、関ヶ原中学校さんの社会テストでは「関ヶ原の戦い」は出てくるのでしょうかね?
それでしたら、その質問は皆さま100点ですね。

なや、福島正則の陣跡も近いのですので、セットでどうぞ。

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