実際に関ヶ原を訪問した際の行程と所要時間などの詳細
このページでは、私が実際に「関ヶ原」の史跡巡りを行った際の行程や観光所要時間情報などを残しておきたいと存じます。まず、今回、関ヶ原は2016年4月の「平日2日間」の行程で計画し、訪問させて頂きましたことをご報告申し上げます。東海道新幹線で岐...
垂井町の観光スポット
このページでは、私が実際に「関ヶ原」の史跡巡りを行った際の行程や観光所要時間情報などを残しておきたいと存じます。まず、今回、関ヶ原は2016年4月の「平日2日間」の行程で計画し、訪問させて頂きましたことをご報告申し上げます。東海道新幹線で岐...
関ヶ原の戦い(関ヶ原合戦)の史跡を周る・見学するうえでは、その交通手段に応じて予定・計画を事前に立てて訪れると、現地で迷ったり・戸惑ったりすることが少なく、比較的スムーズに観光スポットを周ることができると存じます。一番早くて便利に周る方法は...
関ヶ原の史跡を「観光」する際に、史跡がある場所、駐車場の場所、アクセス方法など、事前に調べたい時でも現地に実際に赴いた時にも大変便利な「関ヶ原マップ」を作ってみました。もちろん、関ヶ原の観光協会さんなどが無料で提供してくれるガイドマップやイ...
岩手・禅幢寺は竹中氏と竹中家臣の菩提寺で、竹中氏陣屋から北へ進み、JR東海道本線のカードを抜けた先にあります。禅幢寺は「ぜんとうじ」と読みますが、創建は1494年で、薩摩・金幢寺の僧正碩和尚が開祖との事です。竹中半兵衛は結核(肺炎?)を患い...
垂井の明泉寺は、天才軍師・竹中半兵衛を生みだした、岩手・竹中家の菩提寺です。明泉寺はのち竹中家を称することになる初代・岩手重氏が建立したと伝わる寺です。代々、岩手家(竹中家)の一族が、現在でも住職を世襲しておられます。実は、この明泉寺の本堂...
竹中氏陣屋とは竹中氏陣屋(たけなかしじんや)は、垂井町岩手にある竹中家の先祖伝来の地です。戦国時代には「岩手城」と呼ばれ、背後にある菩提山城が詰めの城と言う事になりましたが、竹中半兵衛までは菩提山城を居城としていました。竹中氏陣屋を築城した...
1578年、荒木村重が織田信長に謀反を起こした「有岡城の戦い」の際に、黒田官兵衛は単身で有岡城に乗り込み、荒木村重を説得しようとします。しかし、黒田官兵衛は捕えられて、土牢に閉じ込められてしまい、戻って来ない黒田官兵衛も寝返ったと織田信長は...
関ヶ原の戦いにて、西軍の大谷吉継と共に奮戦した平塚為広の居城は、関ヶ原町から隣にある垂井町の中心部にあります。この垂井の専精寺付近も湧水が豊かな地であり、旧中山道も通っており、その街並みはいかにも古く素晴らしいです。水が沸くところには人が集...
安国寺恵瓊の陣跡と、毛利秀元の陣跡の入口となる「南宮大社」(なんぐうたいしゃ)は、金山彦神(かなやまひこのかみ)を祀る鉱山の神様として信仰されています。創建はかなり古いと考えられ、平安時代には美濃の一宮となっています。南宮大社の鳥居は、東海...
しかし、スゴイところに陣地を構えたものです。毛利秀元は・・。と言う事で、南宮山(なんぐうさん)にある毛利秀元の陣跡を訪問して参りました。関ヶ原の戦いの際に、毛利秀元が陣を置いた場所は、岐阜県垂井町にある南宮大社から山登りとなります。まずは、...
関ヶ原の戦いにおいて、毛利家は石田三成の要請に応じ、大阪城に参じます。そして、毛利輝元が西軍の総大将となりました。当然、毛利家の親族である吉川家、小早川家は毛利本家に従い兵を大阪に出します。このように毛利家を支えていた吉川広家は、吉川元春の...
長束正家陣跡は、南宮山の麓となる垂井町栗原集落にあります。長束正家は水口城主12万石で、豊臣政権では石田三成らと共に、五奉行の1人として主に財政を担当していました。1600年、石田三成が五大老の毛利輝元を擁立し、関ヶ原の戦いとなると長束正家...