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三方ヶ原の戦いとは
戦国時代の三大英傑として挙げられるのは、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康です。
その徳川家康が、最終的に戦国時代の覇者となり400年間の平和な時代が続いた江戸幕府を開いたことは、誰もが知るところです。
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そんな徳川家康ですが、戦において死を覚悟するような事も何度かありました。
その中でも、トラウマともいえる人生最大の危機だったのは「三方ヶ原の戦い」と言えるでしょう。
しかし、この戦で大敗したことで徳川家康は生きるための考え方が大きく変わったのです。
◆人質からの脱出
そもそも徳川家康は、幼少の頃から帰るべき国がありませんでした。
戦国大名としての勢いを失っていた松平氏は、駿河の今川義元の勢力下に取り込まれていたため、竹千代(徳川家康の幼名)は幼少の頃から今川氏、時には織田氏の人質となっていたのです。
元服して名前が竹千代から元康となってからも、今川氏の麾下という立場に変わりありませんでした。
そんな松平元康(後の徳川家康)にも転機が訪れます。
1560年(永禄3年)
桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討ち取られたことで今川家中は大混乱となったのです。
かねてより機会を窺っていた松平元康。
混乱の隙をついて居城の岡崎城に帰ります。
これにより、念願であった三河の国を今川氏から取り戻したのでした。
◆同盟関係
1563年(永禄6年)
松平元康の嫡子・信康が織田信長の娘・徳姫と婚姻関係を結ぶことで、織田と松平の同盟関係の強化へと繋がります。
そして、今川氏の束縛から解放と決別するため今川義元から与えられた名前を「元康」から「家康」に改名したのでした。
1566年(永禄9年)
三河一国の平定を成し遂げた松平元康。
朝廷より正式に徳川への改姓と従五位下三河守の勅許が下りたことで「徳川家康」となりました。
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1568年(永禄11年)
弱体化の進む今川の領地を自分のものにしようと甲駿(武田と今川)同盟を破棄した武田信玄率いる武田の大軍が駿河へ攻め込みます。
また、同じく今が好機と見た徳川家康も遠江へ攻め込んだのです。
精強な戦闘集団として知られていた三河武士率いる徳川家康は、瞬く間に遠江を掌握すると亡き今川義元の後を継いだ今川氏真を追放したのです。
これにより、幼少の頃より人質となり苦虫を嚙まされていた今川氏を滅ぼし、短期間で三河・遠江の二ヶ国を治める戦国大名となったのです。
また、上洛を果たした織田信長が畿内へ勢力拡大する際は、援軍として参加して大いに活躍して大きな信頼を獲得します。
◆足利義昭と織田信長
将軍足利義昭の名を利用して着実に畿内を平定しながら敵対勢力を対峙してきた織田信長。
戦だけでなく、行政においても自ら陣頭指揮をとっていたのです。
これをよく思わない将軍足利義昭は、織田信長に何度も意見するも全く受け入れてもらえませんでした。
終いには、将軍という権威を否定されて政治にも参加させてもらえないばかりか、織田信長は足利義昭に対して行動や言動を厳しく制限する『17ヶ条の異見書』を突き付けたのです。
これにより2人の決裂は決定的となったのです。
怒りに打ち震えた足利義昭は、御内書をあらゆる勢力に送りつけます。
それは、畿内周辺の戦国大名だけでなく石山本願寺、比叡山などの宗派、敵対関係にあった戦国大名にまで及ぶ見境のないものでした。
その結果、多くの賛同を得たことで信長包囲網へと発展します。
また、信長包囲網に武田信玄も加わったことで、織田と武田の同盟関係は反故となります。
これは、徳川家康にとっても信長包囲網は例外ではなく、東に武田と北条という大敵を背負うこととなったのです。
武田信玄からしてみれば、上洛を果たしてから中央で勢力拡大している織田信長の存在は、無視することは出来ませんでした。
勢力が拡大して危険が及ぶ前に潰してしまおうという思惑があったのかもしれません。
将軍・足利義昭と武田信玄の利害関係が一致したことで、織田信長と同盟関係にあった徳川家康は巨大な敵を背後に背負うこととなったのです。
上洛の準備
◆西上作戦
1572年(元亀3年)10月
上洛すると決めた武田信玄は、準備が整うと西上作戦を開始したのです。
武田信玄は、遠江、三河、美濃へ軍勢を分けて進軍させます。
武田信玄の本隊2万4千は遠江、山県昌景が率いる別動隊3千は三河、秋山虎繁の陽動部隊3千は美濃へと向かったのです。
武田の大軍が遠江に向かっているとの報せを本拠の浜松城で聞いた徳川家康。
このことは、瞬く間に城内に広がり多くの者を震撼させます。
その頃、山県昌景の別動隊も長篠城を占拠して三河を窺うところまで来ていました。
そして、秋山虎繁の陽動部隊も美濃の岩村城を攻撃して11月14日に開城させたのです。
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遂に2万4千の大軍を率いた武田信玄の本隊が青山峠を越えて遠江に侵入します。
徳川方の犬居城を攻略すると城主の天野藤秀を服属させて案内役とします。
武田軍本隊は、信州街道を南下しながら徳川方の支城を次々と攻略して二俣城へ進軍を続けていったのです。
この二俣城は、徳川にとって要衝であったため、何としてでも守り抜く必要がありました。
もし、此処を突破されてしまうと浜松城まで一気に攻め込まれてしまう危険性があったからです。
◆一言坂の合戦
徳川家康は、8千の兵のうち4千の兵を率いて天竜川近くの一言坂を目指します。
その目的は、武田軍の様子を偵察することと、隙があれば攻撃して少ながらずの損害と脅威を与えることにありました。
しかし、天竜川を渡河して一言坂から見る武田軍は、想像以上のおびただしい兵で溢れかえっていたのです。
そのため攻撃することを諦めて、今後の戦に備えるため戦わずして撤退することを選択します。
だが、撤退途中に武田軍に発見されて交戦となってしまうのでした。
徳川家康を逃がすために、大久保忠世が指揮する鉄砲隊、都築藤一郎の指揮する弓隊で向かってくる武田軍を打倒していきます。
そして、徳川四天王・本多忠勝(通称:平八郎)が単騎で敵味方の間に乗り入れると、槍を振り回して味方を逃がしたのです。
これにより、徳川軍は一人の死傷者を出すことなく浜松城へ帰投することができました。
徳川軍を追ってきた武田の重臣・小杉左近は、一兵も倒すことなく逃がしてしまったことを心底悔しがります。
そして、対岸の徳川に見えるように岸に立札を立てたのです。
そこには、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭と本田平八」と書かれていたのです。
この立札からも、小杉左近がどれだけ悔しかったかということが伺え知れます。
◆二俣城の落城
進軍を続けていた武田軍本隊が二俣城近くに着陣し、別動隊の山県昌景とも合流すると二俣城を包囲します。
この二俣城は、天竜川沿いの険しい山に建てられた城であったため、攻めるのがとても困難でした。
また、二俣城では、城内の井戸櫓から天竜川の水をくみ上げて利用していました。
そこで、武田信玄は攻城戦を短期で終息させるために、井戸櫓の破壊を試みます。
二俣城の上流から沢山の材木を流して井戸櫓にぶつけることで破壊したのでした。
これにより、水を確保できなくなったことで二俣城は落城します。
これで徳川家康の本拠・浜松城まで、武田の進軍を止める障壁がなくなりました。
この落城によって最大の脅威が訪れた徳川家康。
武田軍を迎え撃つために籠城戦に備えます。
三方ヶ原の戦い
兵数で圧倒する武田軍でしたが、徳川家康の元にも織田信長からの援軍が来ていました。
重臣・佐久間信盛が率いる織田遠征軍です。
兵数については諸説ありますが、5千または2万とも言われています。
個人的には、この時の織田軍全体の兵力を考えると5千の説が有力のように感じます。
徳川軍と合わせて1万2千ほどの軍勢になりますが、別動隊の山県昌景と合流した武田軍本隊2万7千に対抗するには非常に厳しいものでした。
そのため決戦の場を浜松城で籠城して戦うことが最も良い手段であると多くの者は考えていました。
◆進路変更と決断
1572年年12月22日
進軍を続ける武田軍は、浜松城に向かってくるのだと徳川方の誰もが思っていたのですが、その予想を大きく反します。
進路を急に西に変えて、浜松城の前を通り過ぎる行動をとり始めたのです。
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その様子を浜松城から見ていた徳川家康。
最初は何が起こったのか把握できませんでした。
やがて、武田軍本隊が浜松城の前を悠然と通り過ぎていることを理解すると、城内は動揺と怒りで混乱状態となります。
籠城をして武田軍と決戦を挑むはずだった徳川軍と織田の遠征軍は、完全に肩透かしを食らった格好となったからです。
城内の多くの者が武田軍に対して「人の前まで来たのに、戦わずして通り過ぎるとは何事だ!」と叫び始めたのです。
そんな中、西進する武田軍を見つめながら、最善の選択肢について考える徳川家康。
・このまま武田軍が西進を続ければ、その先には嫡男・徳川信康が居る岡崎城。
・攻撃命令を出さないで武田軍を見過ごせば、多くの犠牲者を出さなくてすむ。
・武田軍を見過ごせば、嫡男・徳川信康の岡崎城が崩落してしまうかもしれない。
・このまま何もしなければ、多くの家臣の信頼を失ってしまうかもしれない。
・侮辱されたと思って浜松城から出てきたところを一気に討とうとする武田軍の罠かもしれなない。
・敵の背後を全軍で討てば、僅かな勝機を見出せるかもしれない。
途中から家臣の進言なども加わり、目まぐるしく頭の中で交錯します。
悩みに悩んだ徳川家康は、家臣たちに決断を下します。
これより全軍で武田軍を追いかけ、三方ヶ原の台地で決戦を挑むことにしたのです。
準備が整い次第、武田軍に追いつくために進軍を急ぐ徳川・織田連合軍。
これが、武田信玄の罠であれば全滅は免れませんが、三河武士としての誇りと当主としての信頼をなくすわけにはいきませんでした。
◆せんめつ寸前
西進する武田軍に追いついた徳川・織田連合軍。
予定通り、三方ヶ原台地を決戦の場とします。
徳川家康たちの位置しているところは、武田軍の上であったため利がこちらにあるだろうと考えたのです。
だが、相手はこれまで数多くの戦で勝利を重ねてきた常勝武田軍。
必ず追いかけてくるだろうと予想していた武田信玄は、徳川家康が予想していた以上の戦闘態勢で待ち構えていたのです。
徳川・織田連合軍は、武田軍を一気に崩そうと「鶴翼の陣」で坂を一気に下ります。
鶴翼の陣は、本来であれば大軍が用いる戦法です。
対する武田軍は「魚鱗の陣」で待ち構えていました。
魚鱗の陣は、数百~数千単位で隊が幾つも編成されているため、最初の隊がやられても次の隊が出てきたのです。
武田信玄は、相手がどこからどういう陣形で攻めてくるのかなど全て見越していたのかもしれません。
この戦法では、大敗するかもしれないと悟った徳川家康。
しかし、すでに坂を一気に下りはじめた自軍の兵を止めることは出来ませんでした。
直接対決する決断をした後悔と自軍の全滅という悪夢が徳川家康の頭をよぎります。
迎え撃つ武田軍は、密集した魚鱗の陣形で徳川・織田連合軍の鶴翼の陣に突っ込んでいきます。
それにより、徳川の陣形はあちこちで引きちぎられるような形となり、瞬く間に総崩れとなったのです。
徳川・織田勢の悲鳴が三方ヶ原に響き渡り、多くの兵が武田軍に武田軍に討たれていったのでした。
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この戦で、鳥居忠弘、田中義綱、成瀬正義といった徳川家康の忠臣が命を落としました。
また、織田方の平手汎秀も討ち取られてしまいます。
徳川軍の武将が討死したという繰り返される伝令と目前に広がる惨状を見つめる徳川家康。
生まれて初めて感じる命の危険と武田軍の本当の恐ろしさを知ることとなります。
徳川・織田連合軍は、開戦してから2時間あまりで総崩れとなります。
一方、勢いに乗る武田軍は、徳川家康の本陣近くまで迫ってきたのです。
◆さいが崖
徳川家康を撤退させるために殿を務めたのは本多忠真。
道の左右に旗指物を突き刺すと「ここから後ろへは一歩も退かぬ。」と言って、武田勢の中に斬り込んで追撃を阻止したのです。
しかし、数で圧倒する武田の兵に討ち取られてしまいます。
徳川家康を守るように供回りを従えて浜松城へ撤退する徳川家康でしたが、武田勢の追撃は凄まじく後ろまで迫ってきていました。
その追撃を阻止すべく何人もの兵が戦いましたが、次々と討たれてしまいます。
その頃、浜松城を守っていた夏目吉信のもとに徳川家康が供回りを連れてこちらに向かっているという報せが入ります。
それを聞いた夏目吉信は、自分の配下30人を引き連れて徳川家康のもとに駆けつけたのです。
味方を得た徳川家康は、敵に斬り込もうとしたところを夏目吉信は羽交い絞めにします。
「大将は、これからのことを考えなくてはいけないのに、他の武士と同じことをするとは何事か。」と主君・徳川家康をりつけたのです。
そして、徳川家康の兜を奪うと影武者となって武田の兵と戦って討死したのです。
その後も追撃する武田軍を背に感じながら何度も自害を覚悟する徳川家康。
撤退途中、あまりの恐怖に馬上で脱糞したとも言われています。
それでも何とか命からがら浜松城まで逃げ切ることが出来たのです。
徳川家康が浜松城に着いたあと、戻ってくる兵を待っていましたが殆どいませんでした。
このままでは、攻めてくる武田軍から城を守ることは不可能に近い状態でした。
そこで、腹を括った徳川家康は、一か八かの賭けに出たのです。
浜松城の城門を開け放ち、城門の周囲に明かりをつけて誰もいないようにしたのです。
これを見た武田軍は、城兵たちが混乱して門を閉じることを忘れたのかもしれないと思います。
ここで一気に攻めれば浜松城も難なく落とせると一気に攻めようとしたとき、軍を指揮していた馬場信春が制したのです。
もしかすると、これは徳川方の罠かもしれず、城内に攻め入った途端に逆にやられてしまうかもしれないと思ったのです。
その後、攻めるべきかどうするか迷っているうちに、徳川軍が反撃してくるかもしれないと思った武田軍は、一旦ひき返すことにしたのでした。
一方の徳川家康は、体力的にも精神的にも戦えるような状態ではありませんでした。
この戦いで武田軍の死傷者数は200人、対する徳川軍は2000人だったと言われています。
敗戦から学んだこと
このまま三河が蹂躙され、武田領になってしまうことを覚悟した徳川家康。
しかし、運が徳川家康を味方します。
1573年(天正元年)5月
三河の野田城を攻めていた時、武田信玄が病に倒れてしまいます。
そのため退却することになりますが、甲斐への帰国途中に亡くなってしまいます。
このことで救われたのは、徳川家康だけでなく織田の信長も同じでした。
武田信玄が亡くなったことで、信長包囲網の1つが大きく崩れたのです。
三方ヶ原の戦いで命は助かったが大敗した徳川家康は、このことを教訓にして忘れないために恐怖で引きつった表情を絵として残しました。
これが有名な「家康のしかみ像」です。
徳川家康は、負けたことから逃げませんでした。
武田軍について様々な情報を収集して戦術などを学んだとされています。
このことが、後の武田との戦いで大いに役に立つことになります。
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また、武田軍がやがて滅亡すると、武田の遺臣を積極的に取り立て自分の軍に組み込みます。
失敗を失敗として終わらせることなく、そこから多くのことを学んで自分の糧としていった徳川家康の強さを感じました。
(寄稿)まさざね君
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