牧田の戦い~丸毛兵庫頭・稲葉備中守等奮戦の地「稲葉貞通」も
今回、関ヶ原の戦いにおける史跡を2日間で周っている際、長宗我部元親の陣跡へと向かっている養老町橋爪の途中で、なにやら「石碑」があるな?と、目にとまった次第です。石碑には「丸毛兵庫頭・稲葉備中守等奮戦の地」と掘られています。当然、予定外である...
今回、関ヶ原の戦いにおける史跡を2日間で周っている際、長宗我部元親の陣跡へと向かっている養老町橋爪の途中で、なにやら「石碑」があるな?と、目にとまった次第です。石碑には「丸毛兵庫頭・稲葉備中守等奮戦の地」と掘られています。当然、予定外である...
安国寺恵瓊の陣跡と、毛利秀元の陣跡の入口となる「南宮大社」(なんぐうたいしゃ)は、金山彦神(かなやまひこのかみ)を祀る鉱山の神様として信仰されています。創建はかなり古いと考えられ、平安時代には美濃の一宮となっています。南宮大社の鳥居は、東海...
しかし、スゴイところに陣地を構えたものです。毛利秀元は・・。と言う事で、南宮山(なんぐうさん)にある毛利秀元の陣跡を訪問して参りました。関ヶ原の戦いの際に、毛利秀元が陣を置いた場所は、岐阜県垂井町にある南宮大社から山登りとなります。まずは、...
関ヶ原の戦いにおいて、毛利家は石田三成の要請に応じ、大阪城に参じます。そして、毛利輝元が西軍の総大将となりました。当然、毛利家の親族である吉川家、小早川家は毛利本家に従い兵を大阪に出します。このように毛利家を支えていた吉川広家は、吉川元春の...
長束正家陣跡は、南宮山の麓となる垂井町栗原集落にあります。長束正家は水口城主12万石で、豊臣政権では石田三成らと共に、五奉行の1人として主に財政を担当していました。1600年、石田三成が五大老の毛利輝元を擁立し、関ヶ原の戦いとなると長束正家...
岐阜県養老町であった金屋川原の戦いは、1600年9月15日、天下分け目の「関ヶ原の戦い」となった際に、戦わずして戦線離脱を図った長宗我部盛親らの部隊が戦闘状態となった合戦です。西軍として南宮山にて布陣するも戦わずにいた長曽我部盛親らは、石田...
長宗我部盛親の陣跡(長宗我部盛親陣址)は、垂井町栗原にあります。約6000の兵にて栗原山麓に陣を置きました。長宗我部盛親は、長宗我部元親の4男となります。長宗我部元親は1599年5月に死去しており、その後を長宗我部盛親が継いでいました。長宗...
池田輝政は三河・吉田城主15万2000石で、正室は徳川家康の娘・督姫です。吉田城も督姫も、豊臣秀吉のお蔭と言う事ですが、石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従いました。岐阜城攻めでは福島正則と共に先陣を務めて戦功を挙げています。関ヶ...
浅野幸長(あさの-よしなが)は、甲府城主21万石で、父・浅野長政より既に家督を譲られていました。ちなみに、父・浅野長政は前田利長と共に、徳川家康暗殺の嫌疑を掛けられて、自ら謹慎中でした。しかし、徳川秀忠に帯同することを許され、真田昌幸が籠城...
山内一豊陣跡は、徳川家康が最初に本陣を置いた「桃配山」からもほど近い、旧中山道沿いにあります。この旧中山道、ちょっと古い集落も街道沿いに残っており、非常に趣がありますので、自転車や徒歩でゆっくりと訪ねて見たくなるところです。山内一豊の陣跡が...
関ヶ原の戦いの際に、徳川家康が最初に本陣を置いた場所は「桃配山」となります。現在、桃配山(ももくばりやま)にある「徳川家康最初陣跡」は国史跡に指定されており、国道21号沿いの階段を登って2分ほどの山腹にあります。1600年9月14日の夜、西...
関ヶ原の戦いにて、徳川家康が最後に本陣を置いた場所は、現在、陣場野公園となっており、その公園の「北西」に「徳川家康最後陣跡」があります。関ヶ原の戦いが始まる前、大垣の岡山本陣から転進してきた徳川家康は「桃配山」に本陣を置きました。1600年...