関ヶ原古戦場の決戦地碑~関ヶ原合戦の激戦地となった場所
関ヶ原の戦いは、東軍・西軍合わせて15万とも言われる、規模の大きな合戦でした。簡単に申し上げますと、関ヶ原のあちこちで、生き残りをかけた壮絶な戦いが繰り広げられた訳ですが、その中でも最大の激戦となった場所が、ここ「関ヶ原の決戦地」だとされて...
関ヶ原の戦いは、東軍・西軍合わせて15万とも言われる、規模の大きな合戦でした。簡単に申し上げますと、関ヶ原のあちこちで、生き残りをかけた壮絶な戦いが繰り広げられた訳ですが、その中でも最大の激戦となった場所が、ここ「関ヶ原の決戦地」だとされて...
奥平貞治(おくだいら-さだのぶ)は、兄・奥平貞能と共に徳川家康に従い、三河・長篠城を500にて守備していました。1575年5月に武田勝頼が15000にて長篠城を包囲し「長篠の戦い」となった際にも、大軍を相手に激戦の中、長篠城を守り切った武将...
関ヶ原の戦いで、東軍の「軍監」を任された本多忠勝は、現在の関ヶ原駅から南側となる「十九女池」の西側付近に陣を張りました。その地とされる公門第ニ公民館と民家の脇には「本多忠勝陣跡」の石碑があります。道路も狭いのですが、史跡への入口も狭く、下記...
ナポレオン戦争のワーテルローの戦い(ベルギー)、アメリカ南北戦争のゲティズバーグの戦いと共に、2014年からは「世界三大古戦場」として名乗りも上げ、歴史ある観光地として更に本格的な活動を開始している関ヶ原町ですが、JR関ヶ原駅前にあった観光...
脇坂安治(わきざか-やすはる)は、賤ヶ岳の七本槍の1人として活躍したと豊臣秀吉の家臣として知られ、また関ヶ原の戦いでは、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと土壇場で寝返った武将として知られます。脇坂安治は父:脇坂安明(田付孫左衛門が父とも)の子...
関ヶ原と聞くと、1600年にあった天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が行われた場所として教科書にも出て来ますが、この関ヶ原(不破の関)は、古来より東西に中山道が貫き、西北に北国街道、南にし伊勢街道が通じる「交通の要所」でした。現在でも、東海道...
JR東海道本線の関ヶ原駅から西にある「八幡神社」の場所は、古い北国街道沿いにあります。関ヶ原の戦いの際、徳川家康が桃配山から前進して陣場野に「本陣」を置きましたが、八幡神社はその徳川本陣の一部として使用されたと言う事です。ちなみに、この関ヶ...
石田三成の盟友として、最後まで石田三成に協力した勇士として、多くの戦国武将好きが親しみを感じているのが大谷吉継(大谷刑部吉継)です。そんな大谷吉継は関ヶ原の戦いにて敗れ、現地で自刃しました。そのため、大谷吉継の陣跡の近くには、大谷吉継の墓も...
他の関ヶ原の史跡は、かつて陣地があった事を示すような「石碑」だけが概ね建っているのですが、ココの笹尾山(ささおやま)だけは、山腹に竹矢来と馬防柵が再現されています。その為、関ヶ原の戦いにおける合戦史跡としては、最大の見どころになると思います...
1600年、徳川家康が大勝利を収めた、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」にて、大きなポイントとなったのが、西軍を裏切った小早川秀秋です。そんな、小早川秀秋が、なぜ松尾山と言う山の上に布陣したのか?、なぜ、そんな場所から裏切ったのか?を考えなが...
関ヶ原の戦いの際、島津家の島津義弘は、そもそも徳川家康からの要請を受けて1000にて大阪から、まずは鳥居元忠が籠城する伏見城へ徳川の援軍として駆けつけました。しかし、鳥居元忠が島津家に援軍要請したことを聞いていないとして、鉄砲まで撃たれて入...
島津義弘の陣跡(島津惟新陣)は関ヶ原の「神明神社」の境内を北西に外れた場所にあります。関ヶ原の戦い(本戦)は、1600年9月15日に火蓋を切りましたが、その前日夜には石田三成や島津義弘らは大垣城にいました。その大垣城に増援として島津義弘の家...