横田尹松とは~高天神城の生き残りで徳川家では使番となった武田家臣
横田尹松(よこた-ただとし、ただまつ)は、1554年に横田高松の娘婿・横田康景(横田綱松)の長男として生まれた。父・横田康景は、千葉氏の一族で甲斐に土着した足軽大将・原虎胤の子であり、横田高松の娘と結婚し横田家の婿養子となっていた。1550...
横田尹松(よこた-ただとし、ただまつ)は、1554年に横田高松の娘婿・横田康景(横田綱松)の長男として生まれた。父・横田康景は、千葉氏の一族で甲斐に土着した足軽大将・原虎胤の子であり、横田高松の娘と結婚し横田家の婿養子となっていた。1550...
田中吉政(たなか-よしまさ)は田中重政の子として1548年に生まれた。幼名は竹、久次、久兵衛。母は竹(国友与左衛門の姉・妙寿院)。田中氏の出自は諸説あるが「寛政重修諸家譜」では、橘氏の末裔が田中氏だとしている。田中筑後守忠政のとき嗣なくして...
竹中重利(たけなか-しげとし)は、1562年に生まれた。父は大御堂城主・竹中重元の弟である竹中重光または竹中重広とされる。すなわち、羽柴秀吉の元で活躍した軍師・竹中半兵衛(竹中重治)の従弟とも甥ともと言う事で、正室も竹中半兵衛(竹中重治)の...
寺沢広高(てらざわ-ひろたか)は寺沢広政(寺沢越中守広政)の子として1563年に生まれた。母は不詳。父の亡きあと、唐津城主として豊臣家の奉行職を務めたようで、30歳のときとなる1592年からの朝鮮攻めにおいては、名護屋城の普請と補給や兵力輸...
本多正重(ほんだ-まさしげ)は1545年、本多俊正の4男として生まれた。兄に本多正信がおり、共に松平家康の家臣として仕えた。1563年、三河一向一揆では兄と共に一揆勢の武将として徳川家康と敵対。しかし、1564年に徳川家康が一揆を鎮圧すると...
山岡景友とは山岡景友(やまおか-かげとも)は、関ヶ原の戦いの際、徳川家康の勝利に大きく貢献した武将とされています。六角氏家臣で栗東武士として名高い瀬田城主・山岡景之の子として1540年に山岡景友は生まれました。山岡家は甲賀郡毛牧村を本拠とし...
▼徳川家康(江戸幕府の初代将軍)は、1542年12月26日が誕生日とされている。歴史マニアだと突っ込み入れる人いらっしゃるので、グレゴリオ暦換算すると、新暦1543年1月31日(水)。三河(いまの愛知県東部)の岡崎城で小大名・松平広忠の子と...
関ヶ原の戦いの際に、徳川家康が最初に本陣を置いた場所は「桃配山」となります。現在、桃配山(ももくばりやま)にある「徳川家康最初陣跡」は国史跡に指定されており、国道21号沿いの階段を登って2分ほどの山腹にあります。1600年9月14日の夜、西...
関ヶ原の戦いにて、徳川家康が最後に本陣を置いた場所は、現在、陣場野公園となっており、その公園の「北西」に「徳川家康最後陣跡」があります。関ヶ原の戦いが始まる前、大垣の岡山本陣から転進してきた徳川家康は「桃配山」に本陣を置きました。1600年...
関ケ原ウォーランド関ケ原ウォーランド(せきがはらウォーランド)は、約3万平方メートルの敷地に、関ヶ原の戦いにて活躍した戦国武将が所狭しと展示されており、さながら「関ヶ原合戦」が再現されている、野外博物館です。お城の「門」の形をした入口を入る...
関ヶ原の戦いで、東軍の「軍監」を任された本多忠勝は、現在の関ヶ原駅から南側となる「十九女池」の西側付近に陣を張りました。その地とされる公門第ニ公民館と民家の脇には「本多忠勝陣跡」の石碑があります。道路も狭いのですが、史跡への入口も狭く、下記...
JR東海道本線の関ヶ原駅から西にある「八幡神社」の場所は、古い北国街道沿いにあります。関ヶ原の戦いの際、徳川家康が桃配山から前進して陣場野に「本陣」を置きましたが、八幡神社はその徳川本陣の一部として使用されたと言う事です。ちなみに、この関ヶ...