長宗我部氏と十河氏の大戦~中富川の戦い
織田氏と長宗我部氏戦国時代・中富川の戦いに至る経緯は、織田信長の勢力拡大(四国制圧)が絡んでいたが、最初から両氏の関係は険悪なものではなかった。長宗我部元親は、明智光秀の重臣・齋藤利三の妹を正室として娶ると、これを伝手に織田信長に接近。嫡男...
織田氏と長宗我部氏戦国時代・中富川の戦いに至る経緯は、織田信長の勢力拡大(四国制圧)が絡んでいたが、最初から両氏の関係は険悪なものではなかった。長宗我部元親は、明智光秀の重臣・齋藤利三の妹を正室として娶ると、これを伝手に織田信長に接近。嫡男...
九州から遠く離れた京では、織田信長の天下布武が現実味を帯びてきていた。将軍・足利義昭を京から追放、東海・機内・北陸・中国などを支配下に治めると、これまでと異なる巨大な城「安土城」を琵琶湖湖畔に築城して居城とした。そして、中国の毛利、越後の上...
台頭する龍造寺隆信九州の西にある肥前国内で頭角を現してきた龍造寺隆信。龍造寺軍の侵攻を察知した肥前国・平戸の松浦鎮信は、九州北部から西日本にかけて強大な勢力を誇る大友宗麟に救援の依頼をした。大友宗麟は、直ちに唐津城・波田氏に救援を命じるが、...
捲土重来捲土重来(けんどちょうらい)、本能寺の変後、豊臣秀吉の天下統一に最も貢献した軍師・黒田官兵衛こと黒田如水。しかし、朝鮮出兵後、豊臣秀吉から疎まれるようになると表舞台から遠ざかり、家督も嫡男の黒田長政に譲って隠居してしまいます。ただ、...
根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)は1587年、豊臣秀吉の九州攻め(九州征伐)の際に、羽柴勢と島津勢が戦った合戦です。徳川家康を臣従させた豊臣秀吉は、1587年1月に九州出陣の触れを出します。戸次川の戦いにて、先に九州に上陸した仙石秀久、...
熊谷直盛(くまがい-なおもり)は、若狭国守護である武田氏の家臣と考えられます。同族とも言われている武将に熊谷直之(くまがい-なおゆき)がいますが、両名とも生年不明で、2人の関係も良くわかりません。ただし、熊谷直之は武田家の老臣とあることから...
中川秀成(なかがわ-ひでしげ)は、1570年に中川清秀(茨木城主)の次男として生まれました。母は熊田宗白の娘で、兄に中川秀政がいます。しかし、その兄・中川秀政は、文禄の役で朝鮮半島に渡っていた際の1592年10月24日、鷹狩りをしていたとこ...
早川長政(はやかわ-ながまさ)は、早川幸憲の子として誕生しました。この早川家は、甲斐源氏・第5代の武田信光の子である早川信平(早川八郎信平)から続く家柄とされます。経緯は不明ですが、早川長政(早川長敏、早川主馬首)は豊臣秀吉の馬廻衆となり、...
太田一吉(おおた-かずよし)は美濃・太田村出身の武将です。美濃・太田家は、もともと斯波家の家臣でしたが、父・太田宗清の頃から、織田信長に仕えていました。別名には太田政信・太田宗隆・太田政之・太田重之・太田重正・太田小源五などがあります。太田...
竹中重利(たけなか-しげとし)は、1562年に生まれた。父は大御堂城主・竹中重元の弟である竹中重光または竹中重広とされる。すなわち、羽柴秀吉の元で活躍した軍師・竹中半兵衛(竹中重治)の従弟とも甥ともと言う事で、正室も竹中半兵衛(竹中重治)の...
寺沢広高(てらざわ-ひろたか)は寺沢広政(寺沢越中守広政)の子として1563年に生まれた。母は不詳。父の亡きあと、唐津城主として豊臣家の奉行職を務めたようで、30歳のときとなる1592年からの朝鮮攻めにおいては、名護屋城の普請と補給や兵力輸...