福島正則陣跡(春日神社)~関ヶ原の戦いを見届けた「月見の宮大杉」
関ヶ原の戦いの際の、福島正則の陣跡は、松尾・春日神社の境内にあります。福島正則は、加藤清正、細川忠興らと共に豊臣秀吉から可愛がれた子飼いの豊臣恩顧武将ですが武断派です。その為、文治派(文吏派)である石田三成、小西行長らとは反りが合わず、福島...
関ヶ原の戦いの際の、福島正則の陣跡は、松尾・春日神社の境内にあります。福島正則は、加藤清正、細川忠興らと共に豊臣秀吉から可愛がれた子飼いの豊臣恩顧武将ですが武断派です。その為、文治派(文吏派)である石田三成、小西行長らとは反りが合わず、福島...
1600年、関ヶ原の戦いの際、藤堂高虎と藤堂高吉、京極高知は、福島正則隊に続いて東軍左翼縦隊の第2陣として、中山道からちょっと南にある柴井地区に陣を構えました。蜂須賀豊雄は藤堂勢、落合新八は京極高知に従っています。開戦となると、藤堂髙虎と京...
関ヶ原の戦いにて命を落とし、露と消えた戦死者は、6000とも8000とも言われますが、その多くは西軍として戦った将兵です。埋葬・供養を担当したのは、東軍として加わっており、この関ヶ原も所領としていた竹中重門です。徳川家康より見舞料(供養料)...
関ヶ原の戦いは、東軍・西軍合わせて15万とも言われる、規模の大きな合戦でした。簡単に申し上げますと、関ヶ原のあちこちで、生き残りをかけた壮絶な戦いが繰り広げられた訳ですが、その中でも最大の激戦となった場所が、ここ「関ヶ原の決戦地」だとされて...
ナポレオン戦争のワーテルローの戦い(ベルギー)、アメリカ南北戦争のゲティズバーグの戦いと共に、2014年からは「世界三大古戦場」として名乗りも上げ、歴史ある観光地として更に本格的な活動を開始している関ヶ原町ですが、JR関ヶ原駅前にあった観光...
脇坂安治(わきざか-やすはる)は、賤ヶ岳の七本槍の1人として活躍したと豊臣秀吉の家臣として知られ、また関ヶ原の戦いでは、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと土壇場で寝返った武将として知られます。脇坂安治は父:脇坂安明(田付孫左衛門が父とも)の子...
石田三成の盟友として、最後まで石田三成に協力した勇士として、多くの戦国武将好きが親しみを感じているのが大谷吉継(大谷刑部吉継)です。そんな大谷吉継は関ヶ原の戦いにて敗れ、現地で自刃しました。そのため、大谷吉継の陣跡の近くには、大谷吉継の墓も...
他の関ヶ原の史跡は、かつて陣地があった事を示すような「石碑」だけが概ね建っているのですが、ココの笹尾山(ささおやま)だけは、山腹に竹矢来と馬防柵が再現されています。その為、関ヶ原の戦いにおける合戦史跡としては、最大の見どころになると思います...
1600年、徳川家康が大勝利を収めた、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」にて、大きなポイントとなったのが、西軍を裏切った小早川秀秋です。そんな、小早川秀秋が、なぜ松尾山と言う山の上に布陣したのか?、なぜ、そんな場所から裏切ったのか?を考えなが...
関ヶ原の戦いの際、島津家の島津義弘は、そもそも徳川家康からの要請を受けて1000にて大阪から、まずは鳥居元忠が籠城する伏見城へ徳川の援軍として駆けつけました。しかし、鳥居元忠が島津家に援軍要請したことを聞いていないとして、鉄砲まで撃たれて入...
島津義弘の陣跡(島津惟新陣)は関ヶ原の「神明神社」の境内を北西に外れた場所にあります。関ヶ原の戦い(本戦)は、1600年9月15日に火蓋を切りましたが、その前日夜には石田三成や島津義弘らは大垣城にいました。その大垣城に増援として島津義弘の家...