松平忠吉とは~井伊直政と共に関ヶ原の火蓋を切るも
松平忠吉とは松平忠吉(まつだいら-ただよし)は、戦国時代の武将で父:徳川家康の4男として、1580年9月10日に浜松城にて生まれた。母は側室のお愛の方(西郷局)で、徳川秀忠も生んでいる。1581年、東条・松平家の松平家忠が病死すると、2歳で...
関ヶ原町の観光スポット
松平忠吉とは松平忠吉(まつだいら-ただよし)は、戦国時代の武将で父:徳川家康の4男として、1580年9月10日に浜松城にて生まれた。母は側室のお愛の方(西郷局)で、徳川秀忠も生んでいる。1581年、東条・松平家の松平家忠が病死すると、2歳で...
このページでは、私が実際に「関ヶ原」の史跡巡りを行った際の行程や観光所要時間情報などを残しておきたいと存じます。まず、今回、関ヶ原は2016年4月の「平日2日間」の行程で計画し、訪問させて頂きましたことをご報告申し上げます。東海道新幹線で岐...
関ヶ原の戦い(関ヶ原合戦)の史跡を周る・見学するうえでは、その交通手段に応じて予定・計画を事前に立てて訪れると、現地で迷ったり・戸惑ったりすることが少なく、比較的スムーズに観光スポットを周ることができると存じます。一番早くて便利に周る方法は...
関ヶ原の史跡を「観光」する際に、史跡がある場所、駐車場の場所、アクセス方法など、事前に調べたい時でも現地に実際に赴いた時にも大変便利な「関ヶ原マップ」を作ってみました。もちろん、関ヶ原の観光協会さんなどが無料で提供してくれるガイドマップやイ...
関ヶ原の戦いの際、大谷吉継陣跡よりも、敵の東軍を先だって迎え撃つような形で布陣したのが、平塚為広(ひらつか-ためひろ)です。平塚家は、相模・岡崎城を本拠地にもした、もともと相模の名門・三浦氏の氏族で、三浦為高が平塚郷(神奈川県平塚市)を領地...
小川祐忠(おがわ-すけただ)は、小川伯耆守入道の子として生まれましたが、生年は不明ですが、1550年生まれ?と推定されます。この時、父・小川伯耆守は六角氏の家臣て、佐和山城主ですので、生年が確かだと佐和山城で生まれた可能性があります。戦国大...
赤座直保(あかざ-なおやす)は、朝倉義景の家臣・赤座直則の子として生まれたが、生年や母などは不詳。1573年8月に、織田信長が朝倉氏を滅亡させた際に、織田家に寝返り本領安堵されたのが、文献でみられる赤座直保の初見となる。その後、桂田長俊(前...
池田輝政は三河・吉田城主15万2000石で、正室は徳川家康の娘・督姫です。吉田城も督姫も、豊臣秀吉のお蔭と言う事ですが、石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従いました。岐阜城攻めでは福島正則と共に先陣を務めて戦功を挙げています。関ヶ...
山内一豊陣跡は、徳川家康が最初に本陣を置いた「桃配山」からもほど近い、旧中山道沿いにあります。この旧中山道、ちょっと古い集落も街道沿いに残っており、非常に趣がありますので、自転車や徒歩でゆっくりと訪ねて見たくなるところです。山内一豊の陣跡が...
関ヶ原の戦いの際に、徳川家康が最初に本陣を置いた場所は「桃配山」となります。現在、桃配山(ももくばりやま)にある「徳川家康最初陣跡」は国史跡に指定されており、国道21号沿いの階段を登って2分ほどの山腹にあります。1600年9月14日の夜、西...
関ヶ原の戦いにて、徳川家康が最後に本陣を置いた場所は、現在、陣場野公園となっており、その公園の「北西」に「徳川家康最後陣跡」があります。関ヶ原の戦いが始まる前、大垣の岡山本陣から転進してきた徳川家康は「桃配山」に本陣を置きました。1600年...
田中吉政の陣跡は、他の陣跡史跡と異なり、道路の交差点にあり、田中吉政陣跡の小さな敷地が、道路で囲まれているような感じになっています。田中吉政と言う武将は、豊臣秀次の筆頭家老でしたが、豊臣秀次の切腹事件では、お咎めなく、10万石で三河・岡崎城...