脇坂安治(わきざか-やすはる)は、賤ヶ岳の七本槍の1人として活躍したと豊臣秀吉の家臣として知られ、また関ヶ原の戦いでは、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと土壇場で寝返った武将として知られます。
脇坂安治は父:脇坂安明(田付孫左衛門が父とも)の子として1554年に近江国浅井郡脇坂庄(長浜市)にて生まれました。
母は田付景治の妹とされます。
最初は浅井長政の家臣でしたが、1573年に小谷城が陥落し滅亡すると、木下藤吉郎(羽柴秀吉)の家臣に加わりたいと懇願したとされており、最初は3石だったと言われます。
この3石と言うのは、武家が最初に雇った際の食禄としては習わしだったようです。
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その後、羽柴秀吉もと1576年には安土城の築城では石騒動にて忠義的行動を示したことから、150石となっています。
この石騒動は、普請の為に羽柴秀吉の手勢が運んでいた石を、丹羽長秀の郎党が泥棒しようとしたのを防いだと言う事になっています。
大きな城の普請では、少しでも手柄を立てるため、石垣の石も家臣らの間ではこのような「奪い合い」が良くあったようです。
脇坂安治は、その後、脇坂家の家督を継いだとされていますが、1578年1月には命を惜しまず、敵城の黒井城に使者として赴くと、赤井直正に投降を勧めました。
赤井直正は降伏こそは受け入れませんでしたが、その脇坂安治の勇気に、先祖伝来の「貂の皮」を贈ったと言います。
これが、脇坂家の家宝でもある「貂の皮」の由来となっています。
貂の皮(てんのかわ)と言うのは、槍の矛先につける鞘であり、江戸時代での参勤交代では、槍に貂の皮をつけた行列が来ると、誰もが脇坂家の行列だと分かったと言います。
こののち、脇坂安治は500にて、明智光秀の与力を命じられ、黒井城攻めにも参加し、赤井直正を討ち取ったとも?言われています。
1578年の三木城攻めでは、羽柴秀吉より白輪違紋入りの赤母衣を賜り、脇坂家の家紋としました。
また、神吉城攻めでは、兜を鉄砲で撃たれながらも1番乗りを果たしています。
1582年には明石郡30石を加増されたとあります。
脇坂安治の正室は西洞院時当の娘です。
本能寺の変のあと、1583年の賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政や神部兵左衛生門らを討ち取るなど、福島正則や加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳の七本槍の1人となる功績を称えられ、山城にて3000石となっています。
なお、この時、脇坂安治は30歳で、賤ヶ岳の七本槍としては最年長となりますが、柴田勝政を討ち取ったとする説があります。
徳川家康との小牧・長久手の戦いでは、伊勢・伊賀方面にて、滝川雄利が守備する伊賀・上野城を攻略するなど貢献し、1585年5月、摂津・能勢郡にて1万石となりました。
更に8月には大和・高取城で2万石、10月には淡路・洲本城に入って3万石と、トントン拍子で出世して淡路水軍を指揮下に置いています。
その後は、淡路水軍を率いて、加藤嘉明や九鬼嘉隆らと豊臣水軍として活躍し、九州征伐や、小田原攻め、朝鮮出兵などに従軍しました。
九州攻めでは仙石秀久・加藤嘉明・長宗我部元親・十河存保ら四国勢とともに出陣し、豊前に到着すると、臼杵城の大友宗麟へ兵糧米を海上輸送し、黒田官兵衛(黒田孝高)の指揮のもと戦いました。
そして、薩摩・平佐城を小西行長らと攻撃して陥落させています。
小田原征伐では、九鬼嘉隆・加藤嘉明らと海上から伊豆・下田城への攻撃にも加わり、小田原城が開城した際には、受取りの検使役も務めました。
文禄の役では1500、慶長の役では水軍として1200を動員しており、功績から淡路にて預かっていた太閤蔵入地から、3000石を加増され合計3万3000石となっています。
豊臣秀吉の死後、徳川家康と前田利家が対立すると、脇坂安治は徳川邸に駆けつけ、徳川家康に加担する姿勢を見せています。
上杉景勝の会津征伐へ出陣する際には、次男で嫡子の脇坂安元を徳川家康の元へ参陣させようとしましたが、石田三成らに妨害されて合流できませんでした。
この時、脇坂安治は旧友である山岡景友を通じて、徳川家康に事情を伝え、引き返したことの了解を得る一方、石田三成との戦いに向けて洲本城の防備を固めるように指示を受けてます。
1600年、関ヶ原の戦いでは、石田三成が挙兵した際に、脇坂安治(47歳)は大坂に滞在しており、そのため西軍の真っ只中であったことから、やむなく1000の兵を率いて西軍に組したとされています。
9月15日の本戦前には、藤堂高虎を通じて西軍から東軍に寝返る算段がついていたと考えられます。
脇坂安治と脇坂安元は、東軍と内通しているとの噂があった小早川秀秋の備えとして、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと共に、松尾山の麓に配置された訳ですが、小早川勢が寝返って大谷吉継を攻撃開始すると、それに乗じて朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと寝返り、平塚為広・戸田勝成に壊滅的打撃を与えました。
その後行われた、石田三成の本拠地・佐和山城の戦いにも参陣しています。
同じく寝返った朽木元綱、小川祐忠、赤座直保とは異なり、戦前から徳川家康にきちんと連絡していたことから、裏切り者ではなく、最初から東軍の味方と見なされ、所領を安堵されています。
1609年9月には、伊予・大洲藩5万3500石に加増移封され、大洲城主となりました。
1614年、大坂の陣において脇坂安治は参陣しませんでしたが、大坂冬の陣では次男・脇坂安元が徳川勢として八丁目口を守備し藤堂高虎の指揮下に入りました。
大坂夏の陣では土井利勝と共に次男・脇坂安元が天王寺付近にて戦功を挙げています。
1615年、脇坂安治は次男・脇坂安元に家督を譲って隠居しました。
その後、京都に赴くと西洞院に居住し、剃髪すると臨松院と号しました。
1626年8月6日に京都で死去。享年73。
脇坂家は外様大名であり、子の脇坂安元には男子が生れませんでした。
しかし、子がいないことをうまく利用し、譜代大名で老中の堀田正盛から、養子をもらい受け、その結果、脇坂家は外様から「願譜代」(準譜代)となっています。
こうして、飯田藩、龍野藩51000石と移封はあったものの、のちには正式な譜代大名とされ、脇坂家は幕末まで続きました。
ちなみに、赤穂浪士で有名な赤穂城接収の際には、脇坂安照が上使を務め、約1年6ヶ月、赤穂城の在番を無事に務めています。
最近では医師・タレントとして活躍していた脇坂英理子(わきさかえりこ)容疑者が、2016年3月9日に診療報酬の不正請求の疑いで逮捕された事でも話題となった脇坂家です。
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関ヶ原の脇坂安治陣跡
関ヶ原の戦いの際に、脇坂安治が陣を置いた場所は、史跡として石碑が建っています。
脇坂安治陣跡は森の中で、手前の道は大変細く、しかも未舗装です。
大きな車は入れませんが、軽自動車程度でしたら、史跡の場所で方向転換も可能ですが、どうぞ自己責任にてお願い申し上げます。
下記の地図ポイント地点が脇坂安治陣跡となります。
地図を縮小するなどして、良くご確認の上、ご訪問願います。
また、近くには松尾山(小早川秀秋陣跡)への登り口もありますので、お時間があればセットでどうぞ。
下記のオリジナルGoogleマップもご参照賜りますと幸いです。
・松尾山の小早川秀秋陣跡~登山道と駐車場の紹介【関ヶ原の史跡】
・平塚為広碑~名門三浦家の誇りを持って大谷吉継と運命を共に【関ヶ原の史跡】
・戸田勝成(戸田重政)の武勇とその関ヶ原での最後
・平野長泰~七本槍の勇名を馳せるもその生涯は?
・下田城と清水康英【下田城の戦い】北条水軍対豊臣水軍
・大洲城~四重四層の復元天守で蘇った伊予の名城(地蔵ヶ嶽城)
・脇坂安董~江戸の知恵頭と称された老中(江戸時代)
・小川祐忠とは~関ヶ原のあと相模・津久井に移り住んだのか?【関ヶ原の寝返り武将】
・朽木元綱とは~織田信長の退却を助けた湖西の朽木領主
・赤座直保とは~東軍に寝返るも事前通告していなかった為所領没収となる