関ケ原の戦犯は毛利輝元か?
天下分け目の「関ケ原の戦い」が行われていた9月15日。Twitterでは石田三成が、#関ケ原2020を立ち上げ、今年も負け戦を実況していました。石田三成は逃走から6日目の9月21日に捕縛されていますが、2020年はMKタクシーを利用しレバノ...
天下分け目の「関ケ原の戦い」が行われていた9月15日。Twitterでは石田三成が、#関ケ原2020を立ち上げ、今年も負け戦を実況していました。石田三成は逃走から6日目の9月21日に捕縛されていますが、2020年はMKタクシーを利用しレバノ...
手這坂の戦い(てばいざかのたたかい)は、戦国時代に、常陸・小田城の小田氏と、佐竹氏が戦った合戦です。小田氏が長年支配していた常陸・片野城が、佐竹勢に奪われて、太田資正が入ります。太田資正はまもなく入道して太田三楽斉道誉と号し、家督を梶原景国...
長良川の戦い(ながらがわのたたかい)は、戦国時代の弘治2年(1556年)4月に、美濃の長良川付近で行われた合戦です。戦ったのは、美濃守護代を隠居した斎藤道三と、嫡男・斎藤高政(斎藤義龍)となります。この頃、31歳くらいだった斎藤高政(斎藤義...
戦国時代の日本歴史上有名な戦いである「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)をできるだけわかりやすく・尚且つ詳しくご紹介させて頂きます。今川義元の大軍に、清洲城では籠城する準備を進めたようですが、1560年5月19日、朝3時頃、丸根砦と鷲津...
関ヶ原の戦いの際、大谷吉継陣跡よりも、敵の東軍を先だって迎え撃つような形で布陣したのが、平塚為広(ひらつか-ためひろ)です。平塚家は、相模・岡崎城を本拠地にもした、もともと相模の名門・三浦氏の氏族で、三浦為高が平塚郷(神奈川県平塚市)を領地...
樫井の戦い(かしいのたたかい)は、1615年、大坂夏の陣の際に発生した合戦のひとつで、豊臣勢の塙団右衛門(塙直之)や淡輪重政が討死した戦いでした。樫井と言う場所は、大阪府泉佐野市にある紀州街道の古い集落になっているところです。すでに堀を埋め...
田辺城の戦い(たなべじょうのたたかい)は、関ケ原の戦いの前哨戦のひとつで、慶長5年7月19日(1600年8月27日) から9月6日(10月12日)にかけて約2ヶ月間、丹後・田辺城での籠城戦となりました。守るのは丹後の大名・細川忠興に家督を譲...
織田信長(おだ-のぶなが)は、日本の戦国時代の大名で戦国三英傑のひとりです。信長の父は織田信秀(おだ-のぶひで)と言いますが、もともと尾張守護(国主)の斯波義統の傘下である、尾張守護代の清州織田家のそのまた庶流(一族)に過ぎませんでした。主...
デヴィ夫人(デヴィ・スカルノさん)は、オランダから独立を果たし、インドネシアの初代大統領になったスカルノ大統領と、22歳の時に正式に結婚し、4人の夫人のうちの第3夫人となりました。しかし、3年後の1965年(昭和40年)に軍事クーデターが発...
判官びいきと言う言葉をたまに目にしますが、イマイチ正確な意味までわからないと言う場合が多いのではないでしょうか?そんな「判官びいき」に関して解説したいと存じます。そもそも、判官びいきを全部漢字で記載しますと「判官贔屓」と書きます。読み方(ひ...
1578年、上杉謙信が急死したあと、上杉家の後継者を争ったのが「御館の乱」(おたてのらん)となります。抜群のカリスマで家臣らを統率してきた上杉謙信が、春日山城の厠で倒れて昏睡状態となり、1578年3月13日に急死します。上杉謙信には子がおら...
1582年、織田信長より毛利攻めを命じられた羽柴秀吉は宇喜多直家を含めた3万にて、毛利勢として清水宗治らが籠城する備中・高松城に押し寄せました。そして、毛利の援軍も来るとにらみ合いとなりましたが、黒田官兵衛の秘策を受けて、蛙ヶ鼻から3キロの...