その他の合戦場訪問記。
河越夜戦とは~絶体絶命の危機と策謀による北条家逆転勝利とは
河越夜戦の背景室町幕府は、国がいくつにも分かれていた関東地方を統治するため鎌倉府を設置します。鎌倉府の最高責任者・鎌倉公方は将軍の代理という立場でしたが、幕府派遣の関東管領が執権の職務と坂東武者の掌握をしていました。◆確執鎌倉公方の第四代・...
その他の合戦場訪問記。
河越夜戦の背景室町幕府は、国がいくつにも分かれていた関東地方を統治するため鎌倉府を設置します。鎌倉府の最高責任者・鎌倉公方は将軍の代理という立場でしたが、幕府派遣の関東管領が執権の職務と坂東武者の掌握をしていました。◆確執鎌倉公方の第四代・...
三船山合戦までの経緯三船山合戦(みふねやまかっせん)は、戦国時代の1567年8月23日に上総国君津郡三船台にて、里見義弘と北条氏政が戦った合戦です。鎌倉入りを目指していた小弓公方・足利義明は、里見義堯・真里谷信応らと国府台城に入ると、北条氏...
賤ケ岳の戦い戦国時代の1582年(天正10年)6月2日戦国時代に様々な革命を起こして勢力拡大を続けてきた織田信長ですが、家臣・明智光秀の謀反によって本能寺で亡くなってしまいます。この本能寺の変では、織田信長だけでなく後継者である嫡男・織田信...
小田原攻め(小田原征伐)とは武田勝頼を討ち滅亡させた織田信長であったが、本能寺の変で明智光秀に討たれると、織田家の支配からも外れた甲斐・信濃などの武田遺領を巡って、上杉景勝、北条氏直、徳川家康が争う天正壬午の乱となる。1582年10月末に、...
三方ヶ原の戦いとは戦国時代の三大英傑として挙げられるのは、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康です。その徳川家康が、最終的に戦国時代の覇者となり400年間の平和な時代が続いた江戸幕府を開いたことは、誰もが知るところです。スポンサーリンク (a...
萱津の戦い(かやづのたたかい)は、戦国時代の1552年に尾張国萱津にて、織田信長・織田信光の軍勢と、清洲織田勢の坂井大膳が戦った合戦です。織田信秀(おだ-のぶひで)の死後、弾正忠家の当主を継いだ織田信長(おだ-のぶなが)ですが、駿河より侵攻...
天下布武の旗印を掲げ勢力拡大を続ける織田信長。尾張・美濃を支配下に治め、足利義昭を擁して京上洛も果たします。しかし、天下布武という先を見ている織田信長は、休む間もなく摂津・越前・近江、そして伊勢へと手を広げていくのでした。1570年(元亀元...
手這坂の戦い(てばいざかのたたかい)は、戦国時代に、常陸・小田城の小田氏と、佐竹氏が戦った合戦です。小田氏が長年支配していた常陸・片野城が、佐竹勢に奪われて、太田資正が入ります。太田資正はまもなく入道して太田三楽斉道誉と号し、家督を梶原景国...
長良川の戦い(ながらがわのたたかい)は、戦国時代の弘治2年(1556年)4月に、美濃の長良川付近で行われた合戦です。戦ったのは、美濃守護代を隠居した斎藤道三と、嫡男・斎藤高政(斎藤義龍)となります。この頃、31歳くらいだった斎藤高政(斎藤義...
桶狭間の戦いとは戦国時代の日本歴史上有名な合戦である「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)を、関東より合計3回訪問調査した結果も踏まえて、できるだけわかりやすく・尚且つ詳しくご紹介してみます。駿河・遠江・三河の大名である今川義元の大軍が尾...
樫井の戦い(かしいのたたかい)は、1615年、大坂夏の陣の際に発生した合戦のひとつで、豊臣勢の塙団右衛門(塙直之)や淡輪重政が討死した戦いでした。樫井と言う場所は、大阪府泉佐野市にある紀州街道の古い集落になっているところです。すでに堀を埋め...
1578年、上杉謙信が急死したあと、上杉家の後継者を争ったのが「御館の乱」(おたてのらん)となります。抜群のカリスマで家臣らを統率してきた上杉謙信が、春日山城の厠で倒れて昏睡状態となり、1578年3月13日に急死します。上杉謙信には子がおら...