大垣城の歴史と大垣城の戦い~大垣城訪問記
大垣城の歴史大垣城(おおがきじょう)は連郭輪郭複合式平城で、最盛期の規模は現在の敷地の広さからは想像もできない、4重にも水堀を巡らした総構えの城だったようです。大垣城の別名は麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)とも、牛屋城とも呼ばれま...
大垣城の歴史大垣城(おおがきじょう)は連郭輪郭複合式平城で、最盛期の規模は現在の敷地の広さからは想像もできない、4重にも水堀を巡らした総構えの城だったようです。大垣城の別名は麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)とも、牛屋城とも呼ばれま...
関ヶ原の戦いの際、大谷吉継陣跡よりも、敵の東軍を先だって迎え撃つような形で布陣したのが、平塚為広(ひらつか-ためひろ)です。平塚家は、相模・岡崎城を本拠地にもした、もともと相模の名門・三浦氏の氏族で、三浦為高が平塚郷(神奈川県平塚市)を領地...
樫井の戦い(かしいのたたかい)は、1615年、大坂夏の陣の際に発生した合戦のひとつで、豊臣勢の塙団右衛門(塙直之)や淡輪重政が討死した戦いでした。樫井と言う場所は、大阪府泉佐野市にある紀州街道の古い集落になっているところです。すでに堀を埋め...
石田三成公。今でこそ、義に生き、義を貫いた武将として知られておりますが、一昔前までは秀吉公の腰巾着、狡猾な悪党として語られることも少なくはなかった武将です。石田三成公といえば、関ヶ原の戦い。戦国時代の大戦で最後を飾った石田三成公ですが、その...
田辺城の戦い(たなべじょうのたたかい)は、関ケ原の戦いの前哨戦のひとつで、慶長5年7月19日(1600年8月27日) から9月6日(10月12日)にかけて約2ヶ月間、丹後・田辺城での籠城戦となりました。守るのは丹後の大名・細川忠興に家督を譲...
織田信長(おだ-のぶなが)は、日本の戦国時代の大名で戦国三英傑のひとりです。信長の父は織田信秀(おだ-のぶひで)と言いますが、もともと尾張守護(国主)の斯波義統の傘下である、尾張守護代の清州織田家のそのまた庶流(一族)に過ぎませんでした。主...
デヴィ夫人(デヴィ・スカルノさん)は、オランダから独立を果たし、インドネシアの初代大統領になったスカルノ大統領と、22歳の時に正式に結婚し、4人の夫人のうちの第3夫人となりました。しかし、3年後の1965年(昭和40年)に軍事クーデターが発...
判官びいきと言う言葉をたまに目にしますが、イマイチ正確な意味までわからないと言う場合が多いのではないでしょうか?そんな「判官びいき」に関して解説したいと存じます。そもそも、判官びいきを全部漢字で記載しますと「判官贔屓」と書きます。読み方(ひ...
1578年、上杉謙信が急死したあと、上杉家の後継者を争ったのが「御館の乱」(おたてのらん)となります。抜群のカリスマで家臣らを統率してきた上杉謙信が、春日山城の厠で倒れて昏睡状態となり、1578年3月13日に急死します。上杉謙信には子がおら...
1582年、織田信長より毛利攻めを命じられた羽柴秀吉は宇喜多直家を含めた3万にて、毛利勢として清水宗治らが籠城する備中・高松城に押し寄せました。そして、毛利の援軍も来るとにらみ合いとなりましたが、黒田官兵衛の秘策を受けて、蛙ヶ鼻から3キロの...
諏訪・信州 城攻め紀行 2-3 荒砥城 からの続きです。素晴らしい復元建物と素晴らしい景観だった「荒砥城」をあとにして、千曲川の南側を上田方面に進み、上田原の戦いが行われた「上田原合戦場跡」を目指しました。付近に「上田古戦場公園」があります...
木崎原の戦いとは木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、1572年に日向の真幸院木崎原(宮崎県えびの市)で行われた伊東義祐と島津義弘(38歳)との合戦です。伊東家側は覚頭合戦と言いますが、島津家側は加久藤城の戦いとする場合もあります。薩摩の...