3分でわかる高橋元種~延岡城を築いた初代の延岡藩主
高橋元種(たかはし-もとたね)は、1571年に筑前の秋月城主・秋月種実の次男として生まれました。母は田原親宏の娘です。天正6年(1578年)、耳川の戦いのあと、8歳の頃に同盟者である小倉城主・高橋鑑種の養子となります。そして、攻め落とした香...
高橋元種(たかはし-もとたね)は、1571年に筑前の秋月城主・秋月種実の次男として生まれました。母は田原親宏の娘です。天正6年(1578年)、耳川の戦いのあと、8歳の頃に同盟者である小倉城主・高橋鑑種の養子となります。そして、攻め落とした香...
根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)は1587年、豊臣秀吉の九州攻め(九州征伐)の際に、羽柴勢と島津勢が戦った合戦です。徳川家康を臣従させた豊臣秀吉は、1587年1月に九州出陣の触れを出します。戸次川の戦いにて、先に九州に上陸した仙石秀久、...
手取川の戦い(てどりがわのたたかい)は、戦国時代の1577年9月23日に、上杉謙信と柴田勝家が戦った北陸での合戦です。七尾城主の畠山義隆(はたけやま-よしたか)が死去し、まだ5際~6歳である畠山春王丸(はたけやま-はるおうまる)が家督を継ぐ...
浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)は、戦国時代の慶長5年(1600年)8月9日にあった北陸における「関ヶ原の戦い」です。本物の関ケ原合戦は、1600年9月15日ですので、浅井畷の戦いは約1ヶ月早い「前哨戦」と言う事になりますが、なぜ、石...
山口宗永山口宗永(やまぐち-むねなが)は、山口光広(山口甚介)の子として1545年に生まれました。初めは山口宗長とも名乗り、山口甚兵衛、山口玄蕃頭宗永とも称しますが、豊臣秀吉に仕えます。文禄2年(1593年)、朝鮮攻めの失敗から丹生島城(臼...
金森長近(かなもり-ながちか)は、美濃源氏土岐氏の支流とされる大畑定近(金森定近)の次男として、1524年に生まれました。美濃国土岐郡多治見郷大畑村(岐阜県多治見市大畑町)の出身だとされ、幼名は五郎八可近(ごろうぱち-ありちか)とあります。...
青木一矩青木一矩(あおき-かずのり)は、戦国時代の武将で美濃国大野郡揖斐庄の住人・青木重矩(青木勘兵衛)の子として生まれたとされています。生年は不明です。母は、鍛冶職人とされる関兼貞(関兼員)の三女・大恩院となります。この大恩院は、豊臣秀吉...
辰姫辰姫(たつひめ)は、石田三成の3娘として1592年に生まれました。生母は、正室・うた(皎月院、こうげついん)と考えられています。慶長3年(1598年)頃だと推測されますが、豊臣秀吉が亡くなったあとに、豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)の養...
日本各地で開催される戦国時代・戦国武将などにまつわるイベント情報です。情報提供はコメント欄よりお願い申し上げます。確認次第、本文に追記させて頂きます。第40回まつだ観光まつり2017年8月26日~8月27日神奈川県松田町小田原北条氏の重臣・...
死を覚悟して鳥取城に入った吉川経家が兵糧攻めの末に切腹した「鳥取の飢え殺し」でも有名な鳥取城ですが、その後の戦国時代の鳥取城と、関ケ原の戦いの際の鳥取城を調べてみました。山中鹿之助と尼子勝久を支援して鳥取城主となった山名豊国でしたが、羽柴秀...
戦国時代で名高い名将として、日本国内のみならず朝鮮出兵で明軍を撃破して鬼石曼子(グイシーマンズ、鬼島津)として畏れられた島津義弘がいますが、一人の寵臣に幾度も危機を救われています。その寵臣こそ、ぼっけもん(鹿児島弁で勇者、豪傑の意味)と呼ば...
堀尾吉晴(ほりお-よしはる)は、1543年に、尾張の土豪・堀尾泰晴(堀尾吉久・堀尾泰時)の長男として生まれました。父は岩倉城主・織田信安の重臣で、1559年、堀尾吉晴は初陣を果たし、一番首を取ります。しかし、その相手は織田信長であり、敗れた...