平塚為広 平塚為広碑 名門三浦家の誇りを持って大谷吉継と運命を共に【関ヶ原の史跡】

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関ヶ原の戦いの際、大谷吉継陣跡よりも、敵の東軍を先だって迎え撃つような形で布陣したのが、平塚為広(ひらつか-ためひろ)です。

平塚家は、相模・岡崎城を本拠地にもした、もともと相模の名門・三浦氏の氏族で、三浦為高が平塚郷(神奈川県平塚市)を領地とした際に「平塚」と称したのが始まりです。

平塚為広(平塚因幡守為廣)は、最初、明智光秀に仕えていたようで本能寺の変では織田信長襲撃に加わっていたとも言われているようです。
のち豊臣秀吉の家臣となると馬廻衆になりました。




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しかし、羽柴秀吉から勘気を被り、浪人すると、播磨の戦いで、黒田官兵衛(黒田孝高)に陣借りをした際に、高倉山城主・福原助就を討ち取る手柄を立て、再度、豊臣家に仕えたようです。
そして、徳川家康との小牧・長久手の戦い小田原攻めなどで武功を挙げました。

1592年からの朝鮮出兵では、肥前・名護屋城にて本丸広間番衆として見受けられ、豊臣秀吉の警護をしたようです。

1595年7月には8000石となり、1598年の醍醐の花見でも、豊臣秀吉の護衛として見受けられますし、従五位下も受けています。

豊臣秀吉が死去したあとは、豊臣秀頼に仕え、1600年に美濃・垂井城主として12000石の大名となりました。

なお、平塚為広の弟・平塚久賀(平塚越中守久賀)と、その娘(姪とも?)は怪力の持ち主であったようで、平塚為広自身も大力で、薙刀の名手であったとされます。

蟄居中の佐和山城にて、石田三成が「挙兵」を大谷吉継に打ち明けた際には、平塚為広も共に考え直すように説得しました。

しかし、大谷吉継と共に平塚為広も徳川家相手に戦う決意をします。

そして、鳥居元忠が守る伏見城の戦いで戦功を挙げ、その後、大谷吉継と共に北国口を守備する為、8月4日には北庄城にて前田利長に備えました。
のち、大谷吉継と共に9月3日に関ヶ原へ転進すると、陣地構築などを共に開始したようです。
平塚為広の兵力は360程度であったと推定されています。




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なお、小早川秀秋が内応しているとの噂がある中、戸田勝成と共に小早川秀秋の動向を探るようにと、9月14日に大谷吉継から命を受けたとされます。
そして、裏切りが明らかになれば、暗殺するようにと密命を受けたようですが、事前に暗殺計画が漏れてしまったとあります。

関ヶ原の本戦では、大谷吉継が入った藤川台の前衛として平塚為広は布陣しましたが、この時、目が見えない大谷吉継に代わって、大谷勢・前線の指揮を託されたようです。
平塚左馬助・平塚庄兵衛、戸田重政・戸田内記らも付近に布陣しています。

平塚為広

藤堂高虎京極高知などを相手に、一時は、不破の関付近まで押し出て善戦しますが、ついに松尾山の小早川秀秋が裏切ると、大谷吉継を守るかのように後退し、小早川勢とも激戦となりました。
下記は、関ヶ原ウォーランドの平塚為久です。

平塚為久(関ヶ原ウォーランド)

最後は、小川祐忠の家臣・小川甚助によって首を捕れらたとも、山内一豊の家臣・樫井太兵衛に討たれたとも、小早川秀秋の家臣・横田小半介によって討たれたとも諸説あります。
また、次男の平塚庄兵衛や戸田勝成も共に討死したとされています。

なお、山内家の樫井太兵衛は、逆に平塚為広が討ち取った敵将で、樫井太兵衛の首と共に「和歌」を添えて、大谷吉継の元に届けたともされています。

名の為に棄つる命は惜しからじ終にはとまらぬ浮世と思へば

これは「名誉の為であれば命は惜しくない。人はいつか死ぬのだから。」と言う意味です。
もっとも、平塚為広は大谷吉継と共に、ここで討死しなければ、当然、名を残す事はなかったかも知れません。

大谷吉継は、返事の句を、親類で従軍僧だった祐玄に持たせたと言います。

契りあれば六つの巷にしばし待ておくれ先立つ事はありとも

六つの巷とは「六道の辻」のことです。六道と言うのは、人間は死んだあと、生前の行いによって6つの世界のいずれかに行って、また生まれると、当時の仏教にて信じられていたことで、辻と言う事は分岐点と言う事です。
すなわち、大谷吉継は「縁があればまた会えるので、六道への分かれ道で、しばらく待っていて欲しい。揃って冥途に行こう。」と返事を出した訳ですが、必死に奮戦している平塚為広に届いたかどうかは、定かではありません。
ただし、これが辞世の句ともされています。

劣勢の中、2度も小早川勢を押し返したともされる平塚為広ですが、隣接していた脇坂安治朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らも東軍となって押し寄せてきました。

既に何時間も戦い続けていた平塚為広は疲労困憊となって力尽き、田の畝に座り込むと、敵に討たれたとされています。




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弟・平塚久賀は生け捕られて、徳川家康の前に引き立てられましたが、釈放されたと言います。
かつて徳川家康は平塚久賀を家臣にと誘っていたそうですので、武士の情けでしょうか?

生き残った嫡男・平塚為景(平塚左馬助為景)は、大坂の陣では豊臣秀頼の大阪城に入り、大阪夏の陣「八尾・若江の戦い」にて討死しましたが、これも余り知られていません。
ちなみに、大谷吉継の子・大谷吉治も、真田信繁(真田幸村)が命を落とした天王寺・岡山の戦いにて共に討死しています。
父と同じく名誉を重んじ「義」を貫いた大谷吉治と平塚為景は、きっと大阪城にて、ともに賞賛し、友情を確認していたことでしょう。
まさに、真田幸村にも準ずる勇士である事には間違いないでしょう。

江戸後期には、平塚為広の末裔である平塚為善が幕府旗本として見受けられ、その娘が11代将軍・徳川家斉の側室・お万の方(契真院)になっています。

徳川家斉時代の老中には、脇坂安治の子孫である脇坂安董がいますので、徳川将軍の側室となった平塚家の娘と言い、なんとも言い難い因果な話でございます。




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平塚為広の碑

平塚為広碑は、平塚為広が布陣したであろう、大谷吉継陣の藤川台の麓にある、道路脇にあります。
ただし、石碑ですので、平塚為広の墓と言う事ではありません。




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ちなみに、平塚為広碑は、8代・平塚為忠の次男で、評論家・女性解放運動家として有名な「平塚らいてう」の父である平塚定二郎氏によって、昭和15年(1940年)9月15日に建立されました。

平塚為広碑がある場所は下記の地図ポイント地点となります。

路肩が広めの良い道路なのですが、碑がある場所は「カーブ」で見通しが悪いですので、付近に車を止める際には、事故防止のため、カーブには止めないようご配慮願いたく存じます。
ちょっと北側に行くと、大谷吉継の墓に通じる遊歩道入口もあります。

大谷吉継の墓への別の入口

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