阿多長寿院盛淳の墓と蒲生10名の墓【関ヶ原近郊の史跡】
阿多長寿院盛淳とは長寿院盛淳(ちょうじゅいん-もりあつ)は、阿多盛淳、阿多長寿院盛淳とも呼ばれますが、阿多と言うのは子孫が阿他氏を称したからとなります。長寿院盛淳は、もともと室町幕府の管領の1つである畠山氏の分家出身という事で、1548年?...
阿多長寿院盛淳とは長寿院盛淳(ちょうじゅいん-もりあつ)は、阿多盛淳、阿多長寿院盛淳とも呼ばれますが、阿多と言うのは子孫が阿他氏を称したからとなります。長寿院盛淳は、もともと室町幕府の管領の1つである畠山氏の分家出身という事で、1548年?...
このページでは、私が実際に「関ヶ原」の史跡巡りを行った際の行程や観光所要時間情報などを残しておきたいと存じます。まず、今回、関ヶ原は2016年4月の「平日2日間」の行程で計画し、訪問させて頂きましたことをご報告申し上げます。東海道新幹線で岐...
関ヶ原の戦い(関ヶ原合戦)の史跡を周る・見学するうえでは、その交通手段に応じて予定・計画を事前に立てて訪れると、現地で迷ったり・戸惑ったりすることが少なく、比較的スムーズに観光スポットを周ることができると存じます。一番早くて便利に周る方法は...
関ヶ原の史跡を「観光」する際に、史跡がある場所、駐車場の場所、アクセス方法など、事前に調べたい時でも現地に実際に赴いた時にも大変便利な「関ヶ原マップ」を作ってみました。もちろん、関ヶ原の観光協会さんなどが無料で提供してくれるガイドマップやイ...
萱津の戦い(かやづのたたかい)は、戦国時代の1552年に尾張国萱津にて、織田信長・織田信光の軍勢と、清洲織田勢の坂井大膳が戦った合戦です。織田信秀(おだ-のぶひで)の死後、弾正忠家の当主を継いだ織田信長(おだ-のぶなが)ですが、駿河より侵攻...
天下布武の旗印を掲げ勢力拡大を続ける織田信長。尾張・美濃を支配下に治め、足利義昭を擁して京上洛も果たします。しかし、天下布武という先を見ている織田信長は、休む間もなく摂津・越前・近江、そして伊勢へと手を広げていくのでした。1570年(元亀元...
天下分け目の「関ケ原の戦い」が行われていた9月15日。Twitterでは石田三成が、#関ケ原2020を立ち上げ、今年も負け戦を実況していました。石田三成は逃走から6日目の9月21日に捕縛されていますが、2020年はMKタクシーを利用しレバノ...
手這坂の戦い(てばいざかのたたかい)は、戦国時代に、常陸・小田城の小田氏と、佐竹氏が戦った合戦です。小田氏が長年支配していた常陸・片野城が、佐竹勢に奪われて、太田資正が入ります。太田資正はまもなく入道して太田三楽斉道誉と号し、家督を梶原景国...
長良川の戦い(ながらがわのたたかい)は、戦国時代の弘治2年(1556年)4月に、美濃の長良川付近で行われた合戦です。戦ったのは、美濃守護代を隠居した斎藤道三と、嫡男・斎藤高政(斎藤義龍)となります。この頃、31歳くらいだった斎藤高政(斎藤義...
桶狭間の戦いとは戦国時代の日本歴史上有名な合戦である「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)を、関東より合計3回訪問調査した結果も踏まえて、できるだけわかりやすく・尚且つ詳しくご紹介してみます。駿河・遠江・三河の大名である今川義元の大軍が尾...
お茶屋屋敷とは1600年、関ヶ原の戦いにて勝利し、天下を掌握した徳川家康は、全国に主要街道の整備を行った。やがて江戸幕府を開き、1609年に徳川家康が江戸城から上洛する際に、中山道の要衝であり、徳川家が関ヶ原で勝利すると言う「開運の地」とも...
杭瀬川の戦い杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、関ヶ原の戦い(9月15日)の前哨戦となった1600年9月14日に発生した合戦です。9月14日のお昼頃に、徳川家康は3万とも言われる大軍を率いて美濃家坂に着陣します。この時、井伊直政・本多忠...