萱津の戦い ~織田信長・勝利を得る~
萱津の戦い(かやづのたたかい)は、戦国時代の1552年に尾張国萱津にて、織田信長・織田信光の軍勢と、清洲織田勢の坂井大膳が戦った合戦です。織田信秀(おだ-のぶひで)の死後、弾正忠家の当主を継いだ織田信長(おだ-のぶなが)ですが、駿河より侵攻...
萱津の戦い(かやづのたたかい)は、戦国時代の1552年に尾張国萱津にて、織田信長・織田信光の軍勢と、清洲織田勢の坂井大膳が戦った合戦です。織田信秀(おだ-のぶひで)の死後、弾正忠家の当主を継いだ織田信長(おだ-のぶなが)ですが、駿河より侵攻...
天下布武の旗印を掲げ勢力拡大を続ける織田信長。尾張・美濃を支配下に治め、足利義昭を擁して京上洛も果たします。しかし、天下布武という先を見ている織田信長は、休む間もなく摂津・越前・近江、そして伊勢へと手を広げていくのでした。1570年(元亀元...
手這坂の戦い(てばいざかのたたかい)は、戦国時代に、常陸・小田城の小田氏と、佐竹氏が戦った合戦です。小田氏が長年支配していた常陸・片野城が、佐竹勢に奪われて、太田資正が入ります。太田資正はまもなく入道して太田三楽斉道誉と号し、家督を梶原景国...
長良川の戦い(ながらがわのたたかい)は、戦国時代の弘治2年(1556年)4月に、美濃の長良川付近で行われた合戦です。戦ったのは、美濃守護代を隠居した斎藤道三と、嫡男・斎藤高政(斎藤義龍)となります。この頃、31歳くらいだった斎藤高政(斎藤義...
桶狭間の戦いとは戦国時代の日本歴史上有名な合戦である「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)を、関東より合計3回訪問調査した結果も踏まえて、できるだけわかりやすく・尚且つ詳しくご紹介してみます。駿河・遠江・三河の大名である今川義元の大軍が尾...
樫井の戦い(かしいのたたかい)は、1615年、大坂夏の陣の際に発生した合戦のひとつで、豊臣勢の塙団右衛門(塙直之)や淡輪重政が討死した戦いでした。樫井と言う場所は、大阪府泉佐野市にある紀州街道の古い集落になっているところです。すでに堀を埋め...
1578年、上杉謙信が急死したあと、上杉家の後継者を争ったのが「御館の乱」(おたてのらん)となります。抜群のカリスマで家臣らを統率してきた上杉謙信が、春日山城の厠で倒れて昏睡状態となり、1578年3月13日に急死します。上杉謙信には子がおら...
1582年、織田信長より毛利攻めを命じられた羽柴秀吉は宇喜多直家を含めた3万にて、毛利勢として清水宗治らが籠城する備中・高松城に押し寄せました。そして、毛利の援軍も来るとにらみ合いとなりましたが、黒田官兵衛の秘策を受けて、蛙ヶ鼻から3キロの...
諏訪・信州 城攻め紀行 2-3 荒砥城 からの続きです。素晴らしい復元建物と素晴らしい景観だった「荒砥城」をあとにして、千曲川の南側を上田方面に進み、上田原の戦いが行われた「上田原合戦場跡」を目指しました。付近に「上田古戦場公園」があります...
木崎原の戦いとは木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、1572年に日向の真幸院木崎原(宮崎県えびの市)で行われた伊東義祐と島津義弘(38歳)との合戦です。伊東家側は覚頭合戦と言いますが、島津家側は加久藤城の戦いとする場合もあります。薩摩の...
根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)は1587年、豊臣秀吉の九州攻め(九州征伐)の際に、羽柴勢と島津勢が戦った合戦です。徳川家康を臣従させた豊臣秀吉は、1587年1月に九州出陣の触れを出します。戸次川の戦いにて、先に九州に上陸した仙石秀久、...
手取川の戦い(てどりがわのたたかい)は、戦国時代の1577年9月23日に、上杉謙信と柴田勝家が戦った北陸での合戦です。七尾城主の畠山義隆(はたけやま-よしたか)が死去し、まだ5際~6歳である畠山春王丸(はたけやま-はるおうまる)が家督を継ぐ...